ごく慎ましやかな印象を与える淡いクリーム色の財布を覗いた名前は、ジェニファーに向かってにっと笑いかけ、「待っててね」と言い残して軽い足取りでドーナツパーラーに駆けていった。地下鉄のコンコースに満ちる人工の明かりが、彼女の財布の留金を綺麗な黄金色に輝かせる。

ジェニファーは先を急ぐ人の波に逆らう彼女の背中越しにそれを見ながら、形のいい唇を引き結んだ。
つい先程、自分よりも背の低い彼女の頭の向こうに見えてしまった財布の中に、あの黒い紙幣があった。はじめて金融街でそれを目にした時に感じたおぞましさとは少し違う、生理的な嫌悪にも似た感覚を覚えた彼女は、それを胸の中でしっかりと噛みしめて、それからそれを吐き出すように大きくゆっくりと息を吐いた。

もうこの国の経済はミダスマネーを前提として回っている。国際通貨基金に勤務し、極東金融街への立ち入りを許可されたジェニファーは、その現実からはどうやっても逃れることができない。
煤けた色の感情をため息と共に吐き出してから、ジェニファーは友人の財布にあった黒い紙幣から意識をそらすよう努めることにした。

愛用のサングラスを少し傾けて、ドーナツパーラーののぼりに改めて視線をやる。人目を引く巧妙なデザインに踊る新作の文字と、大きくプリントされた甘くて柔らかそうなドーナツ。隣を歩くジェニファーがそれに目を奪われたことに気付いた名前は、まだ映画が始まるまで時間があるからと屈託のない笑みで言い、なんのためらいもなく道草を食うことにしたのだった。
その隣を、グレーのスーツを着た男が足早にすり抜けていったことなんて、きっと彼女は気付いていないだろう。休日を謳歌している彼女に、そのサラリーマンが小さく舌打ちをしていた事にも。

ジェニファーは、友人に舌打ちをしていった男に対して苛立ちを覚えることはなかった。むしろ、彼の反応は、褒められる行為かどうかは別として、昨今の状況を考慮するとごく当然のことのように感じられたからだ。誰にも気付かれず流通する黒いカネ、拡大してゆく経済規模と、それに比例して閉塞してゆく人々の未来。
その中において異常なのは、むしろ名前の方だとジェニファーは感じていた。派遣社員として働いている彼女は、その閉塞しつつある未来の只中にいるはずなのに、どういう訳だか、ひどくあっけらかんとしているのだ。貯えが多いわけでもない、国の将来を過信しているわけでもない、なのに彼女の表情が曇ることはない。

磨かれたガラスの向こうで、名前が店員に黒い紙幣を渡す。それと引き換えに受け取った白い紙袋を抱えた彼女が、シックな扉を押して店内から出てきた。軽い足取りと、上機嫌にゆるんだ目元。

「近くに公園あったよね? そこで食べようよ」
「ああ、いいねえ」

名前の提案に賛同しながら、ジェニファーは彼女の腕の中から紙袋を流れるような手つきで奪う。白い紙袋には、どうやらいっぱいにドーナツが入っていたらしい、ずしりと重たいそれに、ジェニファーは思わず驚嘆の声を上げた。

「あら、ずいぶんたくさん買ったね」

紙袋に収まりきらない甘い香りが、彼女の鼻腔をそっとくすぐる。思わず緩んだジェニファーの口角につられるように、もともと締まりのない名前の顔が更に幸せそうに緩んだ。

「うん、どれもおいしそうで、つい。それに、ジェニファーならこのくらいぺろっとたべるかなーと思って」

ちょっとだけ悪戯っぽく笑う彼女に、ジェニファーは「まあね」と答えて小さく肩をすくめた。実際、小腹も空いていたところだ。

地下鉄の駅から出るために、エスカレーターに乗る。それから駅前の大きな横断歩道を渡っていくつかの路地を曲がった先に、小さな公園が現れた。
公園といっても、住宅地にある児童公園のような遊具は置かれていない。ケヤキやクスノキが堂々と並び、手入れされた芝生の広がる、簡素な緑化公園だ。木陰には木製のベンチがいくつか置かれており、若いカップルや親子連れが数組、のんびりと時間を過ごしている。

そのベンチのうちのひとつに、ジェニファーと名前はそっと腰かけた。

「あ、あのふたり高校生かな? 初々しいねえ」

ベンチで仲睦まじく談笑する二人を見た名前が、小さな声でジェニファーにそう話しかけた。それから、母親に拾った石を差し出す子どもを見て「かわいいなあ」と声をもらし、赤子の乗ったベビーカーをゆっくりと揺らす若い女性を見て静かに微笑む。

屋外で食事をとることが多いジェニファーには、それは見慣れた光景だった。だが彼女は、名前のようにそれを微笑ましく眺めることはない。常にターゲットに気を払い、経済指標をチェックし、様々なデータを通してこの街を見てきた彼女。名前と同じ光景を見たジェニファーが真っ先に思ったのは、若者の就業率と新生児の出生率の低下だった。

「……そうね」

にこにこと笑う名前に、ジェニファーは少し遅れて同意した。それからゆっくりとした動作でサングラスを外し、スーツの胸ポケットにそれをかける。

確かに、青い瞳で見たこの世界は美しい。緑が茂り、風が木々を揺らす心地よい音が響く。恋人が愛を囁く。子どもが笑う。母親がその手を握る。
だが、金の瞳を持つジェニファーは、そのすべてが金融街の担保として握られていることを知っている。名前が微笑んで見つめるものはすべて、ミダスが簡単にカネに変えてしまえる。いや、彼女が見つめるものだけではない。彼女の未来もまた、一瞬で黒い紙幣に変わりうるのだ。

「子どもかあ。いいなー」
「……名前は将来、子どもが欲しい?」
「え?」

突然そんなことを聞かれた名前が、少し高い声をもらした。きょとん、と両目を見開いて、ジェニファーの方に顔を向ける。ごく日本人らしい濃いブラウンの瞳が、ジェニファーのきりっと整った横顔を真っ直ぐに捉えた。

「えっと、……わたしは、子どもが欲しいと思うよ」

尋ねられるまま、ややおずおずとそう言った彼女。それを聞いたジェニファーは、その双眸を僅かにゆるめて「そっか」と小さく頷いた。彼女なら、そう言うだろうと思っていた。
いや、そう言って欲しいと思っていた、と言った方が正しいかもしれない。金融街に奪われて書き換わってゆく未来ばかりがどうしても目についてしまうジェニファーにとって、本来あるべき世界の姿を再確認させてくれる名前の存在は、ある種の希望のようなものだった。

ジェニファーの表情が柔らかくなったことに安堵した名前は、やや調子を増して「うん」と頷く。そして、ゆっくりと噛みしめるようにこう続けた。

「いい人見つけて、家を買って、子ども産んで……あと犬も飼いたいなあ」
「犬?」
「うん。白い犬。小さい頃から夢なんだよね」

はにかんだように笑う名前を見つめるジェニファーは、その笑みを見つめたまま、思わず言葉を失ってしまった。

白い犬。
確かに彼女はそう言った。

それは、ただの偶然かもしれない。だが、その一言で片付けてしまうにはあまりにも、出来すぎている気がした。

アセットは、アントレの未来が形になったものだという。それがどういう意味なのか、実際のところアントレたちはよくわかっていない。アセットの姿を見たアントレがまず思うことはみんな同じだろう。
『これが、自分の未来?』
少なくともジェニファーはそう思った。生き物は嫌いではないが、取り立てて犬が好きなわけではない。これまで犬を飼ったこともないし、飼う予定もない。これが自分の未来と言われてもいまいち納得ができないまま、漠然とそれを了解したつもりになっていた。

「もしそれが叶ったらさ、ジェニファーも遊びにきてよ」

だが、今ならはっきりと言える。
ジェルジュは、私の未来。

にこにこといつも通りの笑顔を浮かべる彼女に、ジェニファーは深く頷いてみせた。

「うん。約束する」

照れたように笑って「ありがとう」と言った彼女は、それから思い出したようにジェニファーの手の中にある紙袋を指差した。

「もうわたしの話なんかいいからさ、ドーナツ食べようよ」

かさ、と微かな音をたててその存在を主張した白い紙の袋。鼻腔の奥によみがえった甘いかおりが、ジェニファーに空腹を思い出させた。

「……そうね。ドーナツ食べながら、名前の話を聞こうか」
「えー? ……それ、おもしろい?」
「もちろん。私はおもしろいよ。とっても」

紙袋の口を開けながら、ジェニファーはちょっとだけ笑ってそう言った。




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