これは、今しかないんじゃないか。
そう思った途端に激しく鼓動を刻みはじめる、俺の小さな心臓。
隣にいる名前に聞こえてしまいそうなくらいやかましく跳ねるそれをなんとか落ち着けようと努めてみたが、その努力は無駄に終わる。彼女と付き合いはじめた半年前から今に至るまでの間に、こんなにも激しく心臓を打ち鳴らされたことがあっただろうか。俺は爆音のようなその音になすすべなく身を委ねながら、隣でそうしているであろう彼女と同じように、星空を眺め続ける。
特別な理由はなかったはずだ。
名前が「今日は星がきれいだね」と言った。たまたま近くに公園があった。俺が部活に追われているせいで、二人でいられる時間は毎日の帰り道ぐらいしかなかった。
そんな偶然と必然が入り混じった結果、俺達はどちらからともなく公園に足を向けていたのだ。誰もいない公園のベンチに腰掛けて、空を見上げる。見慣れているはすの星空の鮮やかさと、公園の静けさが、今はただただ心地好かった。
彼女を好きになってよかったな。そんな当たり前のことを思いながら満ち足りた気持ちで星空を眺めていた、その時だった。
黒い学生服で覆われた太股の上に投げ出していた俺の左手の上に、彼女の右手がそっと重ねられたのだ。
手を繋ぐわけでもない、指を絡めるわけでもない、ただそっと重ねられただけの掌の柔らかな感触が、一気に全身を駆けてゆく。
そして、俺は唐突に、今しかないんじゃないか、と思った。
つまり、俺は、彼女にキスをしたくなってしまったのだ。
誰もいない公園で、星空を見ながら。シュチュエーションとしては、悪くはない。キスのタイミングを掴めないまま、付き合いはじめて半年が過ぎている。二人きりになれる機会は少ないし、今を逃したら次にいつこんな状況が訪れるかもわからない。たぶん、おそらく、絶対、今なのだ。
だがそう頭で理解していても、俺の体は星空を見上げたままがちがちに固まってしまっていた。もしも、彼女に拒まれたらどうしよう。こんな風に思っているのは俺だけで、名前は本当に純粋に星が見たかっただけだったとしたら。そう思うと、とてもではないが行動なんて起こせない。
それに、もう既に早鐘のように鳴っている心臓のことも心配だった。今からこんなんで、大丈夫なのか、俺。という具合に。
どうしよう、どうしよう、でも今しかない気がするんだよな。煮え切らない思いを抱えながら、様子を窺うように彼女を見遣る。視線を向けた先の名前は、星空ではなく、どういうわけだか俺のことを見詰めていた。微かな星明かりの中、瞬間的に視線が重なる。
名前は俺が自分の方を振り向いたことに驚いたように大きな目を丸く開いてから、頬を赤らめ、すぐにぱっと視線を逸らしてしまった。気のせいかもしれないけれど、俺の左手に乗せられたままの掌の温度が僅かに上がったような気がした。上昇したのは俺の体温だったのかもしれないが、それはたぶん、どっちでもいいことなのだと思う。
空いている左手で恥ずかしそうに顔を隠す名前を見ながら俺は、星が綺麗だと言った彼女の声と、どちらともなく公園に向けられた二人の足取りを思い出していた。そんな俺の脳裏に、ひとつの仮定が浮かび上がる。
――もしも、名前も俺と同じ気持ちでいるのだとしたら。
相変わらず心臓はうるさい。もしも嫌だと言われたら立ち直れる気がしない。
それでも、もしも同じ気持ちでいるのなら、彼女もこんな緊張や心音に苛まれているのなら、ここで頑張らないといけないのはたぶん、男である俺の方だ。
「あ、あのさ、」
意を決して開いた口からは、少し震えた声が出てきた。
情けないなあ、と思いながらも、俺は腰の位置を少しずらして、彼女の方に体を向けるように座り直す。それから、彼女の顔を隠している小さな左手を、無骨な自分の右手でそっと握り締めた。緊張で手が震えてしまったけれど、力加減もなんとかうまく出来た。そしてそのままその手を僅かに下ろすと、隠されていた彼女の顔が星明かりの下に露わになる。
俺は名前の目を見ながら、本心ではない前置きをやや切れ切れに続けた。
「嫌だったら別に、いいんだけどさ、……その、」
彼女の不安げに揺れる瞳が、眉間に刻まれた悩ましげな皺が、僅かに開かれた唇が、俺の心臓をうるさいくらいに急かしながらも背中を押す。
小さく息を吸い込んで、覚悟を決めて、俺は言った。
「キスしてもいいかな」
その緊張した声は、静かな公園にすっと溶け込んで消える。
言ってしまった。心臓が訳のわからない速さで鳴っている。逃げ出してしまいたいのをなんとか堪えて見詰めた先の名前は、眉間の皺をぐっと深くして、泣きそうな顔で俺を見上げる。そして一旦視線を膝に落とし、もう一度俺を見て、それから観念したようにすっと瞼を閉じてくれた。俺は僅かに安堵したけれど、心音は治まらなかった。左手に重ねられた彼女の掌が小さく震えている。緊張しているのは自分だけじゃなかったんだと確信した俺は、目を閉じて静かにその時を待つ彼女を見詰めて、少しだけ微笑んだ。
そして、俺も目を閉じる。
どくんどくんと頭の中に響き続ける音を聞きながら、はじめて名前の唇に触れた。
「それは心臓へのご褒美」
羽貫細さまへ / 東峰が思い切って少しだけ大胆になる
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