彼女

そう書かれた紙切れを持ったまま途方に暮れている東峰を、私は盛大に笑い飛ばした。体育祭に相応しくからっと晴れた青空に、私の笑い声が飛んでゆく。
東峰は覇気のない声で「笑うなよ……」と軽く不満を漏らしたけれど、私の笑い声は止まらなかった。少しだけ、悪いな、と思わないでもなかったけれど、でも、この状況を笑わずにいられるわけがない。

「いやー東峰さん、持ってますね」

怪我をしたクラスメイトの代わりに借り物競争に出ることになった東峰は、持ち前の悪運を存分に発揮して、「彼女」という地雷お題を引き当ててきた。ほとんどの人が「ティッシュ」とか「なんとか先生」という感じの無難なお題を引く中での偉業である。

がやがやと騒がしいグラウンドの中で、東峰の周りだけ空気が重く沈んでいた。彼女がいないことを発端に、この状況は全力で東峰を苛んでいるらしい。
適当な女の子を捕まえて彼女のふりをしてもらえばいいだけなのに、妙なところで真面目なこの男は「いやでも彼女のふりをさせるとか悪い気がするし……ていうかそもそも、断られたら傷付く」と言って、その広い背中を情けなく丸めるばかり。それでいて、早くゴールしないとみんなに迷惑がかかることを気に病んでいるのだから、本当にどうしようもない。
どうしようもなくて、笑えてくる。

「ゴールするには、今から彼女作らないとだね。東峰って好きな子とかいるの?」

どうせだから告白して来なよー、と言ってその背中をばしっと叩くと、彼は青かった顔を真っ赤にしてわなわなと震えはじめた。

「そ、そんなこと出来るわけないだろ!」
「うん、東峰には無理だろうね!」
「っ、じゃあなんで言うんだよ」

追い詰められて神経がたかぶっているせいか、いつもより少しだけ饒舌な彼ににこっと笑いかける。私の鮮やかな笑みに面食らっている彼に、私はこう続けた。

「おもしろいから」

私の言葉に絶句した東峰は、赤くなっていた顔を再び青くして、がっくりと肩を落とした。

赤くなったり青くなったり忙しいやつだなあと思いながら彼を見上げていると、不意に信号器の銃声がグラウンドに響いた。
その鋭い音に釣られてそちらに視線をやる。どうやら、東峰と一緒にスタートした選手のひとりがゴールしたらしい。3-1のゼッケンを着けた男子生徒が、赤い水筒を掲げながらゴールテープを切った。

それを見た東峰が堰を切ったようにそわそわし始める。自分がゴール出来ない可能性が現実味を帯びてきて気が気ではないのだろう。目を泳がせて、冷や汗をかいて、この世の終わりのような顔をしている東峰。

……ちょっといじめすぎてしまったかな。ごめん。

心の中でそう謝った私は、お題の書かれた紙片を握る彼の左手をぱっと掴む。
そして、その手を握ったままゴールに向かって駆け出した。

「え、ちょ、え? 苗字?」

運動部とは思えないわたわたとした足取りで、手を引かれるままに走る東峰。私は足を止めることなく彼を振り返る。

「ほら、ちゃんと走って!」

もたつく彼を叱咤する。
しかし東峰は「え、ええ?」と言って困惑したような表情を浮かべるばかり。黙っていれば恐いくらい凛々しい筈の顔を情けなく歪める彼は、「いや、でも……」とこの期に及んでまだ煮え切らない言葉を吐き出した。

「俺の彼女だと思われたら、その……迷惑じゃないか?」

東峰はその大きな体をしゅん、と縮めて、私の顔色をうかがうようにこちらを見遣る。ハの字に垂れた眉と、すこし野暮ったいふたえの瞼が、その下にある瞳の印象を輪をかけて情けなくしていた。

見慣れたその表情に、思わず笑みがこぼれる。もちろん、苦笑。
私は彼の手首を握る右手の力を少しだけ強くした。東峰の垂れ下がった眉が、それに反応してぴくりと動く。

「別に、平気だよ」

彼女、と書かれた紙切れを持った東峰が死にそうな顔で私のところにやって来たときから、私はこうするつもりだった。
東峰だって、一応私のことを気遣ってはいるけれど、心のどこかでは私だったらその役をやってくれるんじゃないかと思っていたに違いない。そうじゃなかったら、いつも自分をからうばかりの私のところになんか来ないはずだ。

「彼女のいないかわいそうな東峰くんを見捨てらんないしねー」

にやりと笑ってそう言うと、東峰はその双眸を不機嫌そうに少しだけ細めた。死にそうな顔をしていた彼の目に、わずかにだが光が戻る。

「それに、おもしろそうだし!」

からからと笑いながらそう言うと、東峰は小さく溜息をついてから、私に釣られるようにちょっとだけ笑った。

「……苗字は、いつでも楽しそうだよな」
「東峰見てると笑いが尽きません」
「……」

じとりとした視線をこちらに寄越した東峰は、にこにこ笑う私に観念したのか、その仏頂面をふっと和らげた。東峰らしい柔らかな笑みが、がやがやと騒がしいグラウンドの中で不思議な程静かに私の意識に入り込んできた。胸の辺りに、じんわりと暖かい感情が広がってゆく。
私は、それに動揺した。情けない表情と同じく、見慣れているはずのその笑顔。爽やかな秋晴れの空を背景に微笑む東峰の姿が、なぜだかとても、愛しく感じられたのだ。
私は思わず言葉を失ってしまう。私と東峰の間に唐突に訪れた沈黙は、しかし、どういう訳だか気まずくない。むしろ心地好いとさえ思えた。

いつもお喋りな私が急に黙り込んでしまったのを不思議に思ったのか、東峰は微笑んだまま「苗字?」と私の名前を呼んで、その首を僅かに傾げる。
いつもの私たちの間にあるおどけた雰囲気が、なんだかちょっぴり静かで大人な空気に変わりかけていることに気付いた私は、少し考えてから、こう言うことにした。

「……東峰、今『俺もこいつといるとつい笑顔になっちまうぜ』とか思ってる?」

にやっと笑って、ちょっとかっこいい感じの声も作って、東峰をからかうように、私は言った。
柔らかな笑みを浮かべていた東峰の顔が、ぎょっとしたような表情に様変わりする。

「ええ!?なんでそ……いや、思ってない!思ってないです!」
「なんだーつまんないの」

猛然と私の冗談を否定する東峰と、そんな彼を笑う私。
変わりかけていた空気はあっという間に消え失せて、いつもと変わらない時間が流れ始める。

私はそれに安堵した。
私は、おもしろいから東峰と一緒にいるのだ。それ以外の理由なんて、ない、はず。

私は胸の内に微かに残るもやっとした気持ちを掻き消したくて、高らかにこう言った。

「ねえ、あれやってよ、お姫様抱っこ!」

いつもよりも三割増しに弾みをつけた冗談で、私は普段の調子を取り戻そうとしていたのだと思う。
もちろん東峰はあたふた慌てながらそんなこと出来るわけないだろ! と言って、私はそれを笑って、この話題はおしまいになると思っていた。

だから、東峰が「お? おう」と言って私をひょいと掬い上げるように持ち上げた瞬間、私はなにが起きたのかわからず「えっ? えっ!?」と思いっきり慌ててしまった。
ふわり、と体が持ち上がる不思議な感覚が全身を支配したのは一瞬。次いで私は、背中と太ももの裏に回されたたくましい腕の感触をはっきりと感じた。いつもより高い視界と、ぐんと近くにある東峰の顔。なにが起きたのか理解した私の顔に、かあっと熱が集まる。

「ちょ、東峰なにやってんの冗談だって!」
「え? いや、お姫様抱っこってちょっとワイルドでいいなー、とか、思って」
「はあ?」

ヒゲにロン毛に、お姫様抱っこ。東峰のワイルドの基準がいまいちよくわからない私は、赤い顔をごまかすように溜息をついた。
心なしか楽しそうに笑う東峰は、私の溜息を無視したのか気付かなかったのか、私を抱えたままゴールに向かって進んでゆく。

そんな私たちを見た生徒たちが、ざわっと色めき立った。そりゃそうだ、お姫様抱っこなんて普通に生活していてそうそうお目にかかれるものではない。きっと今の私たちは、相当目立っている。

「ね、ねえ、ほんとに付き合ってると思われちゃうよ。東峰いいの?」

すぐそこにある自称ワイルドなヒゲ面に慌てふためきながらそう尋ねると、彼はなにかを考えるように少し間をあけてから、ごく静かに「おう」と頷いた。

「なんかおもしろそうだしな」

私の言葉を引用してにっと笑った東峰。
いつもうだついているばかりの男の口から刹那的な言葉が飛び出してきたことが心底意外で、同時に、無性に愉快だった。私は、彼に釣られるようににっと笑い返す。

「そっか。じゃあ問題ないね」

私はそう言って、右腕を彼の首に回す。がっしりした肩と胸板に上体を預けると、ざわついていた観衆から歓声があがった。ああ、確かに、おもしろいや。

空いている左手でゴールをびしっと指さして「よし、行け東峰!」と命令を下すと、彼は「ああ、任せろ」とちょっと大仰に言って駆け出した。
こちらに注がれるたくさんの視線、流れてゆく風景、ちょっと楽しそうな東峰の笑顔と、騒がしいグラウンドにからからと響く私の笑い声。

きっとこれから、クラスメイトに問いただされたり、いろんな噂が広がったりするんだろう。
けれど、それさえも東峰となら笑い飛ばせる気がした。

これからのことは、ゴールテープを切ってから考えよう。
それまでは、私と東峰が世界の全部でいいや。



「駆け出すシェリーの罠」
りむさまへ / 東峰がお姫様だっこをする話




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