りりりり、りりりり、という、薄い羽を震わせる虫の声が、森然高校の校舎脇にある木陰から聞こえてくる。
昼間に響き渡る蝉の声とは対照的に幽かなその音をぼんやりと聞きながら、名前は自動販売機の横に設置されたベンチに座っていた。
お風呂で一日の疲れを流したばかりの彼女。その手には、さわやかなヨーグルト風味のジュースの入った紙パックが握られている。
半分ほど中身の残っているそれは、彼女の手や夜の空気とその温度を分かち合って、もう既に幾分かぬるくなってしまっていた。うっすらとついていた水滴がパックの表面を伝ってたれ、彼女の履いていたジャージに小さな染みをつくる。
しかし彼女は、それに反応を示さなかった。
その理由はふたつある。
第一に、烏野高校排球部のマネージャーである彼女は、それなりに上等なジャージを履いていたこと。吸汗速乾に優れた布地にとって、水滴ひとつぶなんてあってないようなものだった。
そして第二に、「あれ、苗字?」と自身の名前を呼ぶ澤村の声が聞こえたことだ。
「どうした? こんなところでボーっとして」
もしかして、バテた? と、眉間に心配そうな皺を刻んでそう言った澤村に、名前は意識の全てを奪われてしまったのだ。
自動販売機の投げかけるかすかな明かりを受けて佇む澤村。
僅かに首を傾げた彼の、スポーツマンらしくさっぱりとした印象を与える髪の毛が、水気を含んでしっとりと濡れていた。いつもはぴんとはねている硬そうな毛先も、今は少しだけ重たく湿り、自動販売機の明かりを受けてつやつやと輝いている。
あ、澤村もお風呂上がりなんだ。そう思った途端、彼女の心臓が大きく一度鼓動した。
普段なら決して見ることのない、彼のその姿。髪がつやっぽく濡れているというだけで、彼のまとう雰囲気はいつもと大きく違って見える。彼女は、それが自分にとってひどく危険であることを、すぐさま自覚した。
「え、ぜんぜん! バテてないよ、ぜんぜん元気」
はやる心臓を抑えるように意図的にゆっくりとそう言って、口角を持ち上げてみせた名前。
もちろん、バテてない、などというのは大嘘だった。森然高校で行われている一週間の合宿も、残すところあと二日。朝から晩までみっちり組まれたスケジュールに加え、宮城育ちの烏野勢には不慣れな暑さと肌にまとわりつくような湿度は、彼女の身体に疲労を蓄積させていた。
お風呂上がりのひと時を、自動販売機の近くでぼーっとすごしていたのもそのせいだ。半戸外になっているドリンクコーナーには、森然高校を囲む森から涼しい風が吹き込んでくる。一度ベンチに腰掛けてしまったが最後、手足が訴える疲労のせいで脳が思考停止してしまって、立ち上がる気になれないでいたのだ。
澤村は、彼女のその雰囲気を敏感に察して声をかけたのだろう。
バテていない、という名前の返答に、彼は訝しそうな視線を向ける。
いつもはきりりと持ち上がっている双眸が、すっと細められる。――しっとりと濡れた髪に加え、心配そうな眼差しまで。
それに、名前の胸がどくりと高鳴った。
きっと、澤村はそんなこと、全く意図していないに違いない。しかし名前は、お風呂上がりの彼の一挙手一投足に、視線のひとつひとつに、動揺を覚えないではいられなかった。
ずっと隠してきた淡い気持ち。それが、合宿とお風呂上がりの空気に絆されて、暴れ出そうとしている。
……危険だ。疲労のせいか判然としきらない意識の中で、しかしそこだけはひどくはっきりと、彼女の脳は警鐘を鳴らしていた。今夜の澤村がまとう色香は、とても、あぶない。
「ほんとだってばー。そんな顔しないでよ」
名前は努めて明るくそう言ってから、平静を装ってパックのジュースを少し、吸う。
すっかりぬるくなっていたそれは、ひどく甘酸っぱかった。ヨーグルトの独特の酸味と人工甘味料が、それぞれに激しい自己主張をしながら、のどの奥へと落ちてゆく。
りりりり、と鳴く鈴虫の声が遠くに聞こえる夜の中に、彼女ののどがごくりと鳴る音が大きく響いた。どこか緊張感のあるその音に、澤村の眉がわずかに動く。
「……嘘つけ」
「うそじゃないよ」
「……じゃあ言うけどさ。お前、嘘つくときちょっと首が右に傾いてるぞ」
「え、嘘!」
「うそじゃないよ」
ため息まじりにそう言った澤村は、目を丸くして自分を見上げている名前に向かって、ゆっくりとこう続けた。
「三年も見てれば、そのくらいわかるって」
少しだけ開いた名前の唇から「っ、」という、かすかに息のつまるのような音がもれた。その言葉にならなかった息遣いは、澤村に届くことなく、そよぐ夜風にさらわれて木々の向こうへ消えてゆく。
そしてこの場に消え残ったのは、澤村のぞっとするほどに優しい声の余韻と、彼女の顔に集まる熱。
名前は赤い頬を隠すために少し俯きながら、パックのストローを咥えた。お風呂上がりでまだ水気の残る髪が一房、彼女の肩からばらりと落ちる。
そこから立ち上ったシャンプーの香りが澤村に届いたかどうかはわからない。
ただ彼は、その鍛えられた足を動かして彼女の方に近付くと、俯いてしまった彼女の隣にそっと腰かけた。プラスチック製のベンチが小さくきしっと鳴いて、ふたりの鼓膜を揺らす。
拳二つ分の距離をあけて並ぶ、彼らの肩。わざわざそちらを振り向かなくても、静かな夜の空気を伝って互いの体温がすぐそこにあることが感じられる、それはそんな繊細な距離感だった。
涼しい風にふたりのTシャツの裾がはたと揺れたが、名前にはその涼しさを意識するだけの余裕はもはやなかった。
彼の濡れた髪から、或いは肩にかけられた薄青のタオルからたちのぼる、石鹸のかおり。どこまでも清潔なそれが、彼女の思考をひたすらに掻き乱していたのだ。
どうして。なんで。澤村は何がしたいの?
状況を理解しきらない彼女は、すがるような思いで澤村の方に視線を向ける。ひょうひょうとした笑顔でもいい。呆れたような表情でもいい。とにかく、とめどなく溢れ出してしまいそうな、どうしようもなく沸き立っているこの思いを静めてくれるなにかが欲しかった。
澤村が止めてくれないと、私は。そう思いながら見つめた先の彼は、少し物憂げな眼差しをして、ただ真っ直ぐに前を見つめていた。
澤村が何を思っているのかは、当然のようにわからなかったし、彼のその表情は名前が期待していたブレーキの効果も果たさなかった。
更には、彼の睫毛が瞳に落とす複雑な陰影は、彼女が当初感じていた、「澤村は『そういうこと』を意識してないに違いないのに私はどきどきしてしまって、なんてはしたないんだろう」という罪悪感のようなものを、ゆっくりと、しかしきれいさっぱり、吸い込んでしまった。
つまり、「――もしかしたら、澤村も」。そんな一抹の希望だけが、嵐のように乱れる彼女の胸の中心に残ったのだ。
合宿、高校最後の夏、つききれなかった嘘と、高潔な石鹸のかおり。
彼女はそれらを明確に感じながら、おもむろに口を開く。
「澤村、」
「、ん?」
「ごめん私、嘘ついてた」
思った以上に疲れてたみたい。そう呟くように言った名前は、拳二つ分の距離をすっと埋めた。すぐそこにいた彼にしなだれかかるように上体を預けると、彼の肩がぎりっと強張る。
すぐに振りほどかれるかもしれない、と思っていた彼女の予想に反して、澤村は肩回りの筋肉を僅かに緊張させたまま、彼女のことを受け入れるように少しだけ体の角度を変えてみせた。石鹸のかおりが、強くなる。
Tシャツ越しに触れた澤村のたくましい肩は、名前がこれでよかったのだろうかと迷う余裕もないくらい、夏の空気よりもずっとずっと鮮烈で、熱かった。
「嘘はまた明日の朝に」
あみかさまへ / お泊まり
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