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ぱしゃり、
聞き慣れたシャッター音と共に切り取られた空が、一眼レフの液晶モニターに表示される。小さな画面に収められた、茜色の空。小さい頃から育ってきた街をオレンジ色に染め上げる鮮やかな光と、遠くに並ぶビルディングの影。
それは、なんてことはない、ごくありふれた夕焼けの写真だった。しかし、見る人によっては、このありふれた写真はかけがえのない思い出への切符になる。

彼が自転車の乗り方を教えてくれたのも、ジャンケンで負けてリレーの選手になってしまった私をなぐさめて、それから走り方を教えてくれたのも、こんな夕焼けの綺麗な日だったっけ。

丘の上の小さな公園。遊具もほとんどなければ、他に子供もいない。ここは、私と彼だけの秘密の場所だった。私が困ったとき、悲しかったとき、彼は私と一緒にこの公園に来てくれて、どうしようもない私の話を延々と聞いてくれた。時には、ひとつ上のお兄さんらしくアドバイスもくれたりした。
いちばん初めのきっかけはなんだったか、それはもう覚えていない。しかし、いつの間にか私たちにとってこの公園は、そういう場所になっていたのだ。なにか困ったことがあったとき、悲しかったり、どうしようもないことがあったとき、私たちは必ずふたりでこの公園を目指した。
ここからふたりで見る夕焼けは、私にとって、――それからたぶん、彼にとっても、忘れられない特別な風景になっている。はず。

うん、悪くない。小さく頷いた私は、液晶モニターから視線を上げて、茜色の空を見上げる。ずっと私たちを見守っていてくれた、昔はもっと広かった気もする、秋の夕焼け。

……向こうも、今日はこんな鮮やかな夕焼け空なのだろうか。

部活熱心な彼のことだから、もしかしたら空のことなんか気にしていないかもしれないな。
私はそう思って少しばかり苦笑しながら、今回の手紙に添えることばを探して思案に暮れていた。あまり心配をかけないように。しかし、今度こそ彼が返事を書こうという気になってくれるように。


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ぱさり、
金剛雲水様、と書かれた封筒からかすかな音をたてて落ちたのは、なんとも凡庸な夕焼けの写真だった。またつまんねえもん送ってきてやがるな、と思いながら封筒に残っていた手紙を取り出す。そこには、写真に似合いの、これまたくだらない近況報告がつらつらと綴られていた。

差出人の名前には見覚えがあった。確か近所に住んでいた、一つ下のぱっとしない女だ。いつもあいつの後をついて回っていた、どんくさそうな女。

あの女からの手紙が俺の部屋に届けられるようになったのは、春のおわりのことだった。
どこで誰が間違えたのかは分からないが、くだらない間違いをしやがったものだと思った。
あいつにわざわざ届けてやる気も起こらなかったので、手紙は机の上に放置した。このテの間違いは決して少ないわけではないが、同時にたびたび起こることでもない。おそらくこれっきりだろう。手紙が一通行方不明になったところでクソカスどもが慌てるだけだ、俺には全く関係がない。

しかし、どうだ。
この手紙は、これで何通目になる?
どこで誰がなにを間違えて、俺の元にあの女からのあいつに宛てた手紙が届き続けているのか、それは分からない。しかし、淡い色合いの封筒は俺の部屋に増え続けた。
片手で数えることが出来なくなったとき、俺ははじめてそれを開けた。出てきたのは手紙と写真だった。手紙には、角の丸い整った文字が並べられていた。この手紙があいつのところに届いていないなんて夢にも思っていない、そんなめでたい文章が延々と続いていた。

相変わらずの内容に辟易した俺は、手紙を最後まで読むことなく机の上に投げ出す。写真と封筒が無造作に散らばる机の一角にそれがおさまったのを確認してから、俺は部屋を出た。そもそも、いまどき文通ってのが相当キモいわ。


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どさり、
派手な音をたてて机の上に鞄を置いた阿含は、俺に背を向けたまま「ハァ? んなもん知らねーよ」と言ってベッドに腰を下ろした。そして、俺とそっくり同じ形の瞳をサングラスの奥に隠したまま「なんだよ雲子ちゃん、大事な手紙か?」と言い、口元を挑発的な笑みの形に歪めてみせた。

「ああ、そうだ」

怯むことなくそう答えると、阿含は笑みの形に歪めていた口元を白けたようにへの字に曲げる。そして、「そうかよ」と零すように言ってから、俺から視線を外した。
興を削がれたらしい阿含は、こちらに視線を向け直すことはしなかった。そのまま俺の存在など全く意に介していないという態度を貫くことにしたらしい。

阿含と俺の郵便物が取り違えられることは、決して珍しいことではない。もしかしたらと最後の望みをかけてはみたが、どうやら、それも俺の見当違いであったようだ。阿含が嘘をついているとも思えない。こんなことで嘘をついたところで、あいつになんの得もありはしないのだから。

「……邪魔したな」

彼女からの手紙が届かなくなったのは、夏が始まろうかという頃だった。
一つ年下の彼女は今年から高校に入学した。新しい環境に身を置いて、忙しくしているのだと思っていた。或いはなにか事情があって、手紙を出せないでいるのだと思っていた。

だが、もう、そんな言い訳じみた理由付けもやめなければならない。

俺はサングラスを不敵に光らせる阿含に背を向けると、その部屋を後にした。部屋を出る刹那、机の上に置かれた阿含の鞄の下に見慣れた色合いの封筒を見たような気がしたが、あれは未練がましい俺の意識が見せた幻だったのだろう。


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ぐさり、
やっぱり彼からの返事は来なかった。胸の真ん中に氷でできたナイフを突き立てられたように、そこがさえざえと冷たく痛む。

私のなにがいけなかったのだろう。なにか彼の気に障るようなことを書いてしまったのだろうか。それとも、そもそも最初から彼にとって私は鬱陶しい存在でしかなかったのだろうか。
かつて、彼の弟に投げかけられた心無い言葉が記憶の底に蘇る。あいつはお前が思ってるようなやつじゃねえぞ。露悪的な笑みと、サングラスの反射が目に、胸に、突き刺さったあの日。

私は、あの言葉をもっと真摯に受け止めるべきだったのだろうか。その意味をよく考えて、彼に向き合うべきだったのだろうか。しかし、それももう遅い。
今更いくら考えても、彼の気持ちはわからなかった。私の目の前にある事実はひとつ、彼はあの公園で撮った夕焼けの意味ももう伝わらないくらい、遠くに行ってしまったということだけだ。

送れない写真が溜まってゆく。
今日は、そっちはどんな天気ですか。アメフト、楽しんでいますか。

もう必要ないとはわかっていても、私はカメラを持って家を出ることを止められない。
困ったことや悲しいことがあったとき、私がどうすべきかはずっと前から決まっているのだ。


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ぐしゃり、
あいつが出ていった部屋に、紙のつぶれる無様な音が響く。手紙も、写真も、あいつの名前の書かれた封筒も、一握りであっけなく潰れてあっという間にゴミ箱行きになった。
しばらく机の一角を占拠していた紙きれも、綺麗さっぱり片付けてしまえばもうその面影をうかがわせることはない。

せいせいした気持ちで高笑いのひとつでもしてやろうかと思ったが、あいつの相変わらず辛気臭い顔が脳裏に浮かんで、そんな気もうせた。部屋を出る直前、俺が机に置いた鞄のあたりにちらりと視線をやった時の、悟りきったようなあの顔。
鞄の下からわずかに存在を主張していた淡い色合いの封筒に、あいつは気付いたのだろうか。

気付いたにも拘わらず何も言わずに部屋を出るぐらいのこと、あいつなら簡単にやってのけるだろう。
今はもうぐしゃりと丸められてしまった封筒にあった女の名前、あのとろそうな横顔に、かつてかけた言葉が耳の奥に蘇る。お前がずっと追いかけまわしていた男は、そういうやつなんだよ。

だから言ったじゃねえか、と腹の底であの女を嘲笑ったが、それでも辛気臭いあいつについていくあの女の、これまた辛気臭い横顔は容易に想像できた。

あいつらはずっとこうだった。あの頃からなにも変わりゃしねえ。


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ぱしゃり、
また今日も、送れない写真が増えていく。一眼レフのディスプレイには、あの頃と変わらない茜色の光と、立ち並ぶビルディングの影。

なにをするでもなく公園を歩けば、靴の底で砂の砕ける懐かしい音がする。
たとえひとりになっても、この公園から見る夕焼けは、私にとっては特別だ。彼がもうこの写真を見てもなにも思い出さなくなってしまったとしても、私にとってこれは、かけがえのない思い出への片道切符なのだ。

誰よりも優しかった雲水。
たとえあなたがどんなに報われなくても、私はあなたがいたから今日までやってこられた。
もう迷惑はかけないから。だからどうか、遠くから想わせていてください。

そうして私はまた、思い出だけを写すカメラを構えて、


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「夕べのサティア」
れんげさまへ / 阿含か雲水で詳細はおまかせ




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