からからから、と硝子扉がサッシを滑る音が店内に響く。烏養はざっくりと目を通していた新聞から顔を上げて扉を開けた人物を確認し、僅かに眉間に皺を寄せた。
彼女に会いたくないわけではない。ただ、この時間の、この場所に来られることが問題だった。

「繋心さん、そんな顔しないでください」

くしゃり、と笑った名前は、丁寧に硝子扉を閉めてから、ゆっくりとカウンターに近付いてくる。グレーのプリーツスカートが左右に揺れるのを視界の端に捉えながら、烏養はくわえていた煙草をゆっくりと吸い、煙と一緒に「ここで名前呼ぶなっつったろ、苗字」と、わざと彼女の苗字を吐き出した。
名前は少し拗ねたような顔をしたが、すぐに「はーい、烏養サン」と言って、悪戯っぽい笑みを浮かべた。ふわりと舞った髪の向こうに、下校してゆく烏野高校の生徒がちらりと見える。彼らはお喋りに夢中でこちらには全く感心がないようだったが、それでも烏養は彼らを警戒しないではいられなかった。
いくら名前が人の少ない時間を狙って坂ノ下商店に来たとしても、烏野高校の目と鼻の先にあるこの店では、彼女の学友たちの目から完全に逃れることはできない。高校生なんてものは、かつて自分もそうだったように、大半がばかなのだ。なにがきっかけでどんな噂が広がるかわからない。

彼らを無表情な瞳で見送った烏養は、それからようやく名前の顔に視線を移した。くわえた煙草の先からゆるゆると立ち上る紫煙の向こうで、薄い笑みを浮かべる名前がカウンターに肘をついて両手の上に顎を乗せる。唇の両端がくっと持ち上がって、形のいい三日月を模った。自分よりも一回り近く年下の少女の純朴な、しかしどこか蠱惑的な笑顔が烏養を捉える。
それを斜めに見ながら、烏養は再びゆっくりと煙草を吸った。白い巻紙が僅かにちりちりと音をたてて淡く燃える。名前はそれを見て、愉快そうに少しだけ目を細めた。肺に流れ込んだ煙がじわりと脳にまわってゆく感覚が、彼女の笑みに絆されそうになる烏養をぼんやりと押し留める。煙草のにおいの馴染んだ店内に、烏養の吐き出す白煙が溶けてゆく。

「私も煙草吸ってみたいなあ」

くゆり、消えてゆく煙の先を見詰めながら、名前がぽつりとそんなことを呟いた。霧散する煙を追うその視線は、しばらくしてその目標を見失って宙を彷徨い、思い出したように烏養のもとに戻ってきた。ぱちりと瞬いた黒い瞳と、視線がかち合う。
その顔に浮かぶ幼い笑みを見ながら、烏養は「は?」と小さく疑問の音を漏らした。名前は烏養のその言葉に、またくしゃりと笑う。煙草なんかとてもじゃないが似合わない、彼女らしい笑みだった。名前はそれを口元に張り付けたまま、ごくのんびりした調子で言った。

「だって、煙草に嫉妬しちゃいそう」

烏養はしばらく、ずいぶん長くなった灰を落とすこともせずに、名前の笑みを見詰めていた。この少女は、いつの間にこんなに挑発的な冗談を言うようになったのだろう。
煙草を吸いたいなんて微塵も思っていないに違いない無邪気な笑顔が、烏養の脳を少しずつ侵蝕してゆく。時間と場所を飛び越えてしまいたい衝動が腹の底で頭をもたげ、彼をそそのかした。おそらく、自分と彼女の欲求は一致しているのだろう。あとは煙草の火を消して、ほんの少し彼女に近付くだけで、

その衝動を、烏養は煙草をのむことでやり過ごした。肺が煙で満たされて、頭にもやがかかる。
鋭く吐き出した煙が消えると同時に、頭をもたげていた短慮な欲求も消失した。

「ばかなこと言ってんな」

烏養はそれだけ言うと、壁にかかる時計に視線を滑らせた。そろそろ部活を終えた烏野の生徒たちがぽつぽつと坂ノ下を訪れ始める時間になっていた。
烏養の視線を追って時計を見た名前は一瞬で彼の思惑を理解して、小さく溜息をつく。そうだ、これでいい。烏養はずいぶん短くなった煙草を口から外し、カウンターの上に置かれた灰皿に火種の部分を押し付けた。立ち上る紫煙が細くなり、消える。

「……烏養さん、」

彼女の口からぽつりと漏れたその声は、二人だけの店内にびっくりするくらい大きく響いた。烏養はその声に呼ばれるまま名前の方に顔を振り向け、なんだ? と言おうとしたのだが。

彼のその言葉は、名前の唇に吸い込まれてしまった。
烏養がその事実を理解するよりも早く、彼女の唇が離れる。ほんの刹那合わさっただけの唇に、しかしその感触ははっきりと残っていた。唖然とする烏養の視線の先でくしゃりと笑って「たばこ、にがいね」と言った彼女に、思わず声を荒げてしまう。

「名前!!」

名前を呼ぶな、と言ったばかりの自分の口から彼女の名前が滑り出てきたことに、烏養は顔をしかめる。
名前はそんな彼を見て満足そうに笑った。烏養の眉間の皺が、益々深くなる。彼女はそのままくるりと踵を返して、出入口の硝子扉を開けた。夕暮れに染まった空気が、その隙間から室内に侵入してくる。

「じゃあまたね、烏養さん」

大好きです。とびきりの笑顔でそう言い残して、彼女は鮮やかな夕日の中にその身を躍らせた。グレーのスカートがオレンジ色に染まってひらりと揺れる。あんなことをしでかしたにも関わらず、あっけないほどあっさりと、彼女の背中は赤く燃える夕焼けにくゆり、消えた。
烏養はその背中を追う程幼くはなかった。カウンターの奥からごく静かに彼女を見送ってから、ゆっくりと煙草を取り出して火をつける。ただ、その耳だけが、彼女の消えた夕焼けと僅かに同じ色をしていたが、それも吐き出した煙が早急に隠してしまった。



「くゆる心」
きりさまへ / 高校生主人公で甘い話
(リクエストありがとうございました!)




ALICE+