第二体育館へ続く廊下を、ほとんどスキップに近いリズムで歩いてゆく。
下校時刻が迫った廊下には、私以外誰もいない。静かな冬の校舎に、どこまでも軽快な足音と、それから浮かれきった私の口からもれてくるクリスマスソングが、響く。
そう、今日は、クリスマス。明日から始まる冬休みだとか、受験生に課された課題の山だとかは、とりあえずほっておく。とにかく、今の私にとっては今日のこれからが、このクリスマスがいかに素晴らしい時間になるかということだけが、とにかく重要だった。
これから潔子ちゃんを体育館へ迎えに行って、鞄に忍ばせてきたプレゼントを渡したら、彼女はどんな顔をするだろう。
綺麗な瞳をまんまるくして、びっくりしたような顔をするだろうか。それとも、その美しい顔で笑って、ありがとうと言ってくれるだろうか。
考えれば考えるだけ、期待が膨らんでゆく。スキップに近かった足取りは、いつの間にかクリスマスソングのリズムに合わせて軽やかな駆け足に変わっていた。
もうすぐだ。あの角を曲がれば、あなたのいる第二体育館が窓の向こうに――
見えた。と思った瞬間だった。
私の目の前に、突然真っ黒な壁が現れた。
なすすべなくそれに衝突する。痛みや驚きはほとんどなかった。浮かれすぎて気分がハイになっていたせいかもしれない。私はそのままバランスを失って、しりもちをつく。駆け上がってきた衝撃が、のどのあたりでつかえて「わっ」という声になった。
「わっ、すすすいません!! 大丈夫!?」
はるか頭上からふってきたその声に反応して顔を上げる。真っ黒いジャージと、いかつい顔を情けなく歪めて慌てふためくバレー部エースの姿がそこにあった。名前はたしか、えっと、
「あ、東峰くんだ」
「あ、え、っと、苗字さん」
潔子ちゃんから聞いていた名前を記憶の中から手繰り寄せて、彼を呼ぶ。彼も同じく潔子さんや、私と同じクラスの菅原や澤村から聞いていたのであろう私の名前を、ややぎこちなく口にした。
それから、彼はその大きな体をかがめて、あわあわと私を気遣う。走っていた私が悪いにもかかわらず「ごめん、」と言いながら、こちらに向かって手を差し出してくれた。私は「こっちこそ、ごめん」と言いながらそれに応えるように手を差し出し、彼の大きな手をとってから、
ふと、ある違和感に気付いた。
部活上がりの潔子ちゃんを迎えに行こうとしていた私。でも同じバレー部の東峰くんは、もうすっかり帰り支度を整えてこんなところにいる。それはつまり、
「潔子ちゃん!」
突然大きな声をあげた私に、彼が驚いたような顔をしたのは刹那。私は彼に声をあげるヒマを与えることなく、質問を投げかける。
「ねえ、部活終わったのいつ? 潔子ちゃん帰っちゃった?」
私の剣幕にたじろいだように体を引いた東峰くんは、ややしどろもどろになりながら、今日はいつもよりも少しだけ早く部活が終わったことと、ついさっき正門の方に歩いてゆく潔子ちゃんを見かけたことを教えてくれた。
やっぱり先に帰っちゃってる! 潔子ちゃんを驚かせたくて、部活上がりの彼女を迎えに行くのを秘密にしていたことが、裏目に出てしまったようだ。
私はほんの一瞬だけそのことを後悔したが、すぐに思考を切り替える。東峰くんは、ついさっき潔子ちゃんを見たと言った。走って追いかければ、追いつけるはず。
「東峰くんありがと」
そう言うが早いか、私は立ち上がって駆け出した。つもりだったのだが。
結論から言うと、私は潔子ちゃんを追うことはできなかった。走り出そうとした瞬間に右足首に走った痛みが、私の足を止めてしまったので。
「っ、」と声にならない声をあげながら、右足を反射的に地面から浮かせる。捻った、のだろうか。足首に負担をかけなければ痛みはないようだけれど……、これでは潔子ちゃんを追いかけられないのでは。絶望的な気持ちが、浮かれていた胸の真ん中から一気に湧き上がる。
自業自得、と言ってしまえばそれまでだが、しかし。神様、あんまりじゃないですか? 今日はクリスマスだっていうのに。
「ど、どうした? もしかしてどっかケガした!?」
大きな体を器用に縮めて、私のことを気遣うように覗き込む東峰くん。私は彼のその声に弾かれるように、足首に落としていた視線を持ち上げた。
思っていたより近くにあった彼の顔。ばちっと視線が合った瞬間、東峰くんはかあっと顔を赤らめて体を引いたが、私は無事な左足を使ってその距離を反射的につめる。そして、彼のジャージをむんずと掴まえて、言った。
「お願い、ちょっとおんぶして」
「、ぅえ?」
「潔子ちゃんのとこ行きたいの、早く行かないとなの」
おーねーがーいー、と言いながら掴んでいた彼のジャージをぐいぐい揺さぶった。立派な体格の東峰くんの体幹はほとんどびくともしなかったけれど、心の方はぐいぐい揺さぶられてくれたらしい。「えぇ、そん、え?」とか「手当が先なんじゃ……」とか、そんな感じのことを気の弱そうな声で言っていたけれど、私が「潔子ちゃんが先!」と頑とした声をあげると、彼は「はい!」ととてもいい返事とともに、さっと背中を向けてくれた。
広い背中に飛びつくようにして負ぶさる。おっこちてしまわないように彼の首に手を回しながら「はやく!」と言うと、彼はだっと駆け出した。
第二体育館へ通じる渡り廊下から、上履きのまま外に出る。刺すように冷たい空気が私たちを包み込んだが、それに肩をすくめている余裕はない。
部活上がりらしい学生たちの間を抜けて、潔子ちゃんを目指してとにかく走る。
焦る気持ちそのままに、私の口から「間に合って」という嘆願するような声がもれた。東峰くんは私のそのつぶやきを律儀に拾ってくれた。「うん、間に合わせる」と、前を向いたまま小さな、しかし不思議としっかり響く声で言う。
なんだか、噂に聞いていたへなちょことはずいぶん違うその声に面食らったのは刹那。
不意に、向こうの方からつい先ほど私が口ずさんでいたクリスマスソングが聞こえてきて、私の意識はそちらに向けられる。
見れば、並んで歩いている女子生徒の一団が、声を弾ませてクリスマスソングを歌っていた。
耳の横を流れてゆく冷たい空気の壁の向こう側で、歌声が響く。その旋律は私の焦りを和らげると同時に、クリスマス独特の高揚感をもう一度呼び起こしてくれた。
つむじ風を追い越してやってくるサンタクロースを待ち望む歌。
あの歌詞のように私も、潔子ちゃんにとってのサンタクロースになれるだろうか。
そんなことを考えながら視線を正面に戻すと、私の顔のすぐ横にある東峰くんの耳が、冬の寒さで赤みを帯びていることに気付く。見れば、走っているせいか頬や、それから鼻も、ぼわっと赤くなっている。
もしも私がサンタクロースなら、東峰くんはトナカイということになるのだろうか。
いつもみんなの笑いものだけど、クリスマスにはとっても役に立つあのトナカイ。
サンタとトナカイにしては、この状況はいささかいびつ過ぎる気もするけれど。
でも、世界中にはたくさんのサンタとトナカイがいるのだから、こんないびつなペアだってあってもいいような気がした。
「トナカイさん、ありがとう」
真っ赤な耳にそうささやく。彼は一瞬「トナカイ?」と言いたげにきょとんと私を見つめ、しかしすぐに状況を理解して、小さく笑った。
私もそれに同じような笑みを返して、まっすぐ前に向き直る。さあ、私がサンタになるまで、きっともうあと少しだ。
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