部屋に戻ると、名前がいた。

「おつかれさま!」と右手を顔の位置に上げてにこっと無邪気に笑う名前は、制服を着ている。
一体、いつから俺の部屋にいたのだろうか。

「……何してんだ」

部活が終わって帰ってくれば10時も過ぎる。こんな時間に男の部屋にいるなんて、こいつは一体何を考えているのか。
苦々しそうな顔でそう言った俺の心配を知ってか知らずか、名前は「あ、そうそう」と呑気に笑って、側に置いていた通学鞄から一冊の大学ノートを取り出した。

「これ」

近寄って手に取れば、ごく普通の青い大学ノート。
記憶をたどっても、名前にノートを貸した覚えはない。むしろ復学したばかりの俺が彼女からノートを借りているくらいだ。

なんだ? と問いながら、俺は取り敢えず自分の鞄をその場におろす。
やや訝しげな視線で名前を見れば、彼女はちょっと誇らしげに「古典の要点ノート」と微笑んだ。

ぺらっと表紙を捲ると、そこには綺麗なまとめが綴られていた。その勢いのままもう二、三ページ繰った。名前独特の癖字が続いている。ノート自体の新しさから、この要点ノートは名前が過去に試験対策として使っていたものではないことが分かる。明らかに昨日今日の真新しさ。
ノートに視線を落としたままの俺に、「わかりやすいでしょ?」と愉快そうな声がかかる。わざわざ幼馴染みのために要点ノートを作る彼女の姿を、俺は容易に想像できた。

「そうだな」と言ってノートから顔を上げる。名前が至極嬉しそうに顔を歪めた。

「明日は数学持ってくるから」

楽しみにしててね! と豪語して、名前はぱっと立ち上がった。そして側に置いていた鞄を持ち上げる。

「ん、帰るか」

短く尋ねた俺に、名前は「うん。じゃ明日ね」と手を振って、そのまま部屋を後にしようとした。

「待て」

なあに? と振り返った名前に、俺は机の上へ例のノートを丁寧に置いてから言った、「送ってく」

時間が時間だったので当然了承の短い返事が返ってくると思っていたのだが、名前の口から飛び出した言葉は意外なものだった。

「えー、いいよー」と、軽く眉間に皺を寄せて、彼女はそう言った。紺色の靴下を履いている足先は、一刻も早く帰りたそうに部屋の扉の方を向いている。
よくないだろう。と呆れたように言い、尚も渋る彼女を「行くぞ」と促す。しかし、名前の口からはやはり色のよろしくない不満の言葉が漏れる。

「ちょ、それじゃ私が待ってた意味が無いんだけど」

いや、お前がこんな時間まで待っていたから送ると言っているんだが。
そういう含みを持たせて「どういうことだ?」と問えば、名前はあっけらかんとこう言った。

「部活に集中してほしいから。
朝も放課後も練習でしょ? 邪魔するの悪いなーと思って、ここで待ってたの」

疲れてるでしょ? いいよ、送らなくて。と続けながら、名前は胸の前でひらひらと右手を振る。それから鞄を肩にかけて、紐の位置を左手で直した。

俺は大きく溜め息をつく。
成程、そういうことか。

「そりゃ、尚更送らなきゃならんな」

えー、と尚も食い下がる名前の目を正面から見ながら、「ノートの礼だ」と言った。我ながらなんとも安っぽい理由付けだ、と少しだけ口角が上がる。

「礼ぐらいさせろ」

すると名前は微かに視線を右に泳がせて、「……そういうことなら」と小さな声で承諾した。
いや、承諾させた、という方が正しいかもしれない。昔からこうだ。名前は真っ直ぐに顔を見て頼み事をされると、絶対に断れない。

「よし、行くぞ」とズボンのポケットに両手を突っ込み歩く。
トントンと階段を数段降りたところで背後から、「厳ってさあ、」と声がかかった。

足を止めて振り返れば、彼女はまだ階段の上にいた。
名前がゆっくり口を開く。

「それ、わざとやってんの?」

ちょっとだけ首を傾けて、眉を僅かにひそめていた。俺を訝しんでいるのだろうか。

「なんのことだ?」

名前を見上げたまま疑問に疑問を返すと、彼女は少しだけ眉間の皺を更に深くした。もどかしそうに曲がった唇が、しばし間をおいて開かれる。

「……なんでもない」

彼女の口から飛び出した言葉は、そのまま俺の頭上を通り過ぎていく。
視線を少し下げた名前はトントンと軽快に階段を下り、俺を追い越した。うちの狭い階段で、彼女は俺を器用にかわしていった。微かに制服が触れ合っただけ。小さな衣擦れの音は、彼女の足音に飲み込まれて消える。

俺を残してさっさと階段を下りきった彼女は、ぱっとこちらを振り返って俺を見た。
その瞳になんだか、今までに見たことがないような熱っぽさ、とでも言えばいいのか、とにかく不思議な色が見え隠れしていて。俺は一瞬言葉を失う。

しかしそれは名前の
「ほら、送るんでしょ? 置いてくよ」
という少しけだるい声とともに、彼女の瞳の奥に溶けてしまった。
なんともあっけないものだと思った。

そのまま彼女はひとりで玄関へと歩いてゆく。

置いていかれてしまっては意味がない。俺は気を取り直して階段を下り、彼女の背中を追った。




ALICE+