「奥岳のこといかなくていいの?」と尋ねると、華は少し困ったように笑って「ほんと、そういうんじゃないから」と言ってから、「名前こそ、誰かいないわけ?」と鮮やかな切り返しをしてきた。
卒業式も終え、だんだん人の少なくなってゆく6組の教室。彼女がそこをまだ出ようとしないのは、どうしてなんだろう。名残惜しいのか、やっぱり誰かを待っているのか。私には、分からない。
「いないんですよねーこれが」
「ほんとに?」
「ほんとに」
短い前髪からのぞく眉をひそめる華。綺麗なおでこの真ん中に、ほんの少しの皺が刻まれる。
私は、そこを人差指でちょん、と触る。「そんな顔されても、いないものはいません」と彼女の不満を突っぱねてみせた。
華は私に触られた眉間に右手を当てて、またちょっと眉尻を下げて残念そうに笑った。僅かに首を傾けた華。ふわりと柔らかな胡桃色の髪が、彼女の頬にかかる。
「……華、まだ帰らないの?」
「んー、どうしよっかな」
なにかを明言することを避けた彼女は、薄く微笑んだまま視線を逸らす。
少し、意地悪だったかな。そう思った私は、「私は、もうちょっとここにいたいなあ」と言って、彼女の表情をうかがう。
「私も、なんかそんな気分」
ここにはいない遠い誰かを見つめる瞳で、彼女はそう言った。私の頭上を通り越した彼女の声が、教室の真ん中で名残惜しそうに消え残る。彼女らしからぬ甘い響きをたたえたそれは、短い前髪とは少し、不似合いで。私はそっと瞼を閉じると、その裏にいつかの彼女を思い描いた。
草木萠動;そうもくめばえいずる
降り出した雨を受けて、草木が芽吹きはじめる季節
※現代の暦に合わせると、3月1日から5日頃にあたるようです。
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