それは、ごく春らしいうららかな風だった。誰もが目を細めてその行方に思いを馳せるような、柔らかな風。
私はそれに思い出をさらわれた。さあっと吹いた風は、タイミング悪く開いていた手帳のページを躍らせ、そこに挟んでいた一枚の写真をふわりと奪っていったのだ。
あっ、と漏らして手を伸ばした時にはもう遅い。写真はひらりと欄干を越えて、川の脇に広がる葦原の中へ消えてしまった。
私は慌てて橋を渡り、うっすらと緑の茂る土手を駆け下りる。もうずいぶん昔に着なれた筈のスーツのタイトスカートがもどかしい。
急いで土手を下りきった私は、葦原を前にして逡巡した後、覚悟をきめてパンプスを脱ぐことにした。仕事上がりだったのが不幸中の幸いだ。家に帰ればスーツの予備もあるし。
肌色のストッキングをまとった右足を葦の茂る湿地に差し入れようとしたまさにその時、誰かが私の腕を掴んで、引いた。咄嗟のことに驚きつつも、腕を掴んだその人の姿を確認するように振り返る。
「おねーさん、どうしたの?」
そう言ってうっすらと笑うその顔に、私は見覚えがあった。ついさっき風に流されていった大切な写真に写っていた、「……あきらくん?」
昔の面影そのままの彼の名前を呼ぶと、あきらくんはその笑顔のままちょこっと首を傾げる。あ、そういうところも変わってないんだなあ。
「えっと、高校一緒だった、苗字なんだけど……」
覚えてないよね、と続けようとした私の言葉を、彼の「あ!苗字さんかー」という明るい声が遮った。私のことを覚えてくれていたんだ、と私の顔に広がりかけた笑顔は、しかし一瞬の後に凍り付いた。
「ごめん、全然覚えてないや」
語尾にいくつか星でも飛んでいそうな口調で全く悪びれることなくそう言い放ったあきらくん。彼のその笑みと、首の角度が、失くした写真の中の彼そのままで。
私はもう、なんだかいろいろどうでもよくなってしまった。
「そっかー覚えてないかー」
笑いながらそう言って、土手に腰を下ろす。パンプスを脱いでいた私は、そのまま両足を草原に投げ出した。細い草葉がストッキングをはいた足をちくちくと刺激する。もう何年も忘れていたその感覚は、どうしようもなく心地よかった。
「苗字さん、川はもういいの?」
にこにこと人の好さそうな笑みを浮かべた顔が、草原に座る私を見下ろす。私はスーツのポケットを探って、携帯電話を取り出した。
かしゃり、と合成されたシャッターの音が響く。目的を達した私は携帯電話を閉じて、太ももの上にそれを置き、「うん、いいの」と言った。
僅かに傾きかけた太陽が、私の思い出の消えていった葦原を柔らかな光で照らす。
私と、私の視線の先の葦原を交互に眺めたあきらくんは、「そっか」と言って、またちょっと笑った。
葭始生;あしはじめてしょうず
穀雨に入り、水辺で葦が芽生えはじめる季節
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