!アーボが生き物を捕食します。なんでも許せる方向けです。


カーテンの隙間から差し込んでくる朝の日差しは今日も明るい。リビングのカーテンを引き開けてお気に入りの庭を眺めることから、ナマエの一日ははじまる。
いつものように勢いよくカーテンを開けたナマエは、そこにあった光景に言葉を失った。

緑の茂る庭の中央に、紫色の不気味な影。

その紫色の塊がぎょろりとした金の眸をナマエに向けたのと、それに怯えたナマエがカーテンを開けたまま悲鳴をあげて窓から離れたのがほぼ同時。

ガラスを震わすような悲鳴をあげた少女の怯えた瞳と、泣きながら母の元に逃げていったその後ろ姿を、紫の影は無機質な眸でしっかりと見つめていた。


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翌日も、恐る恐る開けたカーテンの先に薄気味悪く光る紫の生き物はいた。

母はナマエに、あれはアーボというポケモンだということを教えたが、ナマエはあれがピカチュウやポッポと同じポケモンであるとは到底思えなかった。

ナマエがほんの少しカーテンを開けた瞬間、アーボの金色の眸がぎょろりと動いてナマエに向けられた。彼女は、ひっ、と喉の奥から息を漏らして、カーテンを閉めた。
カーテンを閉めてしまえばあの気味の悪い生き物を見なくていい。それがナマエにとってささやかな救いだった。


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今日もあれは庭にいた。
初めて見た日から寸分違わぬ位置に陣取り、まるで庭の主であるかのような顔をしている。

ナマエは勇気を出して、誕生日に買ってもらったポケモン大百科を開いた。あ行のいちばん始めにアーボのページがあった。
今まで何度となく開いてきた百科事典だったが、いつもはピカチュウやプリンの項目を眺めるだけだったので、アーボのページを見るのは初めてだった。窓の向こうに鎮座する紫色の物体は不気味な未知の生物でしかなかったが、あのポケモンも類型化された枠組みの中にあることを知って、少しだけ心に余裕が生まれる。

子供向けの百科事典は、難しい漢字もなくナマエの知識でもすらすらと読み進めることができた。

草地に生息している、
舌をチロチロさせて餌を探す、
顎を外してどんな大きな獲物でも丸飲みにする、
大きな獲物を飲み込むと重くなって動けなくなる、

ナマエは怖くなってばたりと事典を閉じた。読むんじゃなかったと後悔したが、もう遅い。

おそるおそる開いたカーテンの先にいたアーボのお腹は、大きく膨れていた。事典に書いてあることは、どうやら真実であるらしかった。
荒くなってゆく呼吸を感じながら見つめ続けた視線の先で、アーボがゆっくりとこちらを振り向く。大きな口から舌をチロチロと覗かせて、はっきりとナマエを見た。

ナマエは急いでカーテンを閉め、母の元へ駆け寄った。母の背中に抱き着いた彼女は、恐怖のあまり泣くことも出来ずにただただ震えていた。


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ナマエの様子がおかしい。
母親が換気のために窓を開けようとすると、ナマエは泣いて嫌がった。庭で遊ぶのが好きだったはずの我が子が窓に近付くのも避け、笑顔を失ってゆくのは見ていて辛かった。
まだナマエの年頃ではアーボが怖いのだろうとは思うが、それにしても、この怯え方は異常だと言わざるを得ない。

空気が悪くなると体にもよくないから、と言ってカーテンを開けた瞬間、ナマエはその顔を恐怖で歪めて駆け出した。
慌ただしい足音が続き、すぐにトイレのドアが乱雑に閉められる音が聞こえてきた。

お腹の中のものを消化したら、どこかへ行ってしまうから、大丈夫よ。母親がそう優しく説得しても、ナマエは聞く耳を持たなかった。
困ったように溜息をついた母親の視線の先で、アーボが尻尾を大きく揺らした。


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アーボのお腹が日に日に小さくなってゆくことが、ナマエは堪えられなかった。
母はそのままどこかに行ってしまうと言っていたが、ナマエはそうは思えなかった。子供特有の妄想、と言ってしまえばそれまでだったが、しかし、その妄想は確実にナマエを蝕んでいた。

アーボを見るのは恐ろしかったが、あのお腹がどれくらい小さくなったかは毎日確認しないではいられなかった。
きっとあのアーボは、お腹のものを消化しきって動けるようになったら、次は自分を食べに来るに違いない。薄暗い部屋に差し込む太陽の光に目を細めながら、随分スリムになったアーボの腹部を眺める。消化が進んではいるが、まだ動くことは出来ないようだ。どうやら、今日は生き延びられそうだ。その事実に、僅かに胸を撫で下ろす。

だが確実に、私の寿命は迫っている。カーテンを握るナマエの僅かな希望を打ち砕くように、舌をチロチロと出したアーボの不気味な顔が少女の方に向けられた。彼女の狼狽しきった眼差しを、無機質な金の眸が搦め捕った。


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明日にはあたし食べられちゃうよ。

そう言ってナマエは泣き叫んだが、母は困ったようにその頭を撫でるだけで、具体的な対策を講じることはなかった。

ぴったりと閉められたカーテンの向こうで、庭に鎮座するアーボは紫色の腹部を慣らすように大きく一度くねらせた。


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恐怖からほとんど眠ることの出来ないまま朝を迎えたナマエは、重い体をベッドから這うように引きずり出して、あの窓へと向かった。
どんなに心が拒んでも、習慣付けられてしまったあれの状態確認を体が完遂しようとする。

カーテンを掴んで、ナマエは目を閉じた。
カーテンを開けたら真っ赤な口を開けたアーボが窓を破って入ってくる。そして小柄な少女を丸飲みにする。もう幾度となく夢にみた光景だった。恐怖に戦きながら生きる毎日から解放されるのなら、もうなんでもよかった。この悍ましい想像の通りになるのだとしても、楽になれるのなら、それで。

ナマエは力無く両目を開ける。
今日も、カーテンの隙間から差し込む朝の日差しは嫌になるほど明るかった。

ナマエは、カーテンを大きく開けた。
カーテンがレールを走る勢いのいい音は、自分の鼓動に阻まれて聞こえなかった。カーテンがふわりと舞ったことで生まれた僅かな風が、ナマエの前髪をそっと揺らす。

そこには、ナマエが生まれてからずっと目にしてきた、大好きな庭が広がっていた。
鎮座する紫の影も、私を飲み込む深紅の口も、そんなものはどこにもなかった。

ナマエは眩しいその光景に目を細めながら、へたりとその場に座り込んだ。
緊張の糸が切れてだらしなく緩んだ涙腺から、ぽろぽろと涙が零れた。ナマエはカーテンを開いたまま窓を引き開けた。幾日ぶりかに聞いた、からからから、と窓がサッシを滑る音が、耳に心地好い。開け放たれた窓から入る爽やかな朝の風が、蟠っていたナマエの心を解いてゆく。手入れの行き届いた芝生のはえる庭に、彼女は裸足のまま飛び出した。

母の言っていたことは本当だった。あのアーボはお腹のものを消化して、うちの庭から旅立って行った。
もう会えないと思うと、あの金色の眸が急速に恋しくなるから、不思議だ。あんなに怖がらなくてもよかったな、そう反省したナマエは、ずっとアーボが鎮座していた場所にしゃがみ込んで、窓を見上げた。あそこで怯えていた自分を、アーボはどんな気持ちで見ていたのだろう。
怯えていた自分を思い出したナマエは、それすらも可笑しくて、カーテンの開いた窓を見上げてくすりと笑った。


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ラッタを補食したアーボは、大きく膨れた腹を持て余しながら夜を明かし、明るくなってから自分が今いる場所が人間の生活空間の中であることに気付いた。

程なくして、家のカーテンが開かれる。
アーボは独特の真円の眸を目一杯に見開いて、そこにいる人間を見た。

アーボを見つめていたのは、自分よりも小柄なメスの人間だった。
人間はアーボを一目見た途端、その瞳いっぱいに恐怖を湛え、背中を向けて逃げ出した。人間の上げる甲高い悲鳴が、窓ガラス越しにくぐもった音になってアーボに届く。アーボはそれを瞬きひとつせずに、じっと見ていた。

人間のとった行動は、補食者に狙われた獲物のそれだということに、ナマエは気付いていなかった。
家の中に消えて行く小さな背中を見つめるアーボの瞳孔が、すっと細くなった。


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開け放された窓とカーテンに気付いた母親は、ナマエが窓を開けたことに安堵しつつ、庭で遊んでいるであろう彼女に朝食が出来たことを告げるべく窓の方へ歩み寄った。

窓枠に手をかけて眺めた自慢の庭には、我が子の姿はなかった。
代わりに、昨日までと同じ場所に鎮座する不気味な紫色の塊がひとつ、あった。その腹部が再びぽっこりと膨れていることに気付いた母親は、昨日の我が子の言葉を思い出す。まさか、と思いながらも、彼女は自分がこれからとるべき行動について、まずは静かに思案を巡らせていた。




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