「なあ、あれ進じゃない?」

桜庭の声に釣られて、進は振り返る。
先日の美術の時間に行った屋外写生。その中でも特に美術教諭の評価を得られた数枚が、美術室前の掲示板に張り出されていた。
大概は屋外写生に相応しく、山だとか校舎、植物のようなモチーフが多かったのだが、一枚だけ、広い草原の中にぽつんと人物が描かれているものがあった。
その人物は後ろ姿であったが、確かに桜庭の言う通り髪型や背中の筋肉の付き方がなんとなく進に似ている気がする。だが、同時に確固たる確証もない。

「気のせいだろう」

進はそれだけ言うと、さっさと美術室に入っていってしまった。

桜庭はしばらくその絵を眺めていたのだが、不意に、背後から声がかかった。

「そんなに見られると恥ずかしいんだけど」

振り向いた先にいたのは、苗字名前だった。
確か美術部に所属している、少し変わった女の子だと、桜庭は記憶していた。

「え?これ、苗字さんが描いたの?」

彼女はこくりと頷いた。
やや表情の乏しい彼女だが、今は気恥ずかしそうに頬を朱に染めている。彼女が緊張した様子で口を開いた。

「し、進くんには内緒にしてくれる?」

その語尾は僅かに震えていた。
彼女の大きな瞳が嘆願するように桜庭を見上げる。桜庭は女の子から声をかけられるのには慣れていたし、なんとなく自分のことが好きなんだろうな、という眼差しを向けられることもしばしばあった。
だが、こんなに真摯で、同時に切ない眼差しを向けられたのは、初めてであった。惜しむらくはその思いの先にいるのが自分ではなく進であるということだが、しかし、桜庭はそんなことを明確に思考する間もなく、「うん」と反射的に頷いた。

すると彼女は安心したように口元の緊張を緩めて、赤い頬のまま微笑んだ。
桜庭はその笑顔を見てはじめて、その先にいるのが自分でないことを少しだけ残念に思った。





美術の時間が終わり、教材をまとめ終えた桜庭は進に声をかけようとしたのだが、進は既に美術室にはいなかった。置いて行かれてしまったらしい。
仕方なくひとりで美術室を出ようとした瞬間、ふとそこに苗字名前の姿を見付けた。

先程桜庭を見つめていたときとはまた別の、もっと悩ましげなその視線の先には、彼女の絵を眺める進の姿があった。

桜庭は、自分の顔が苦笑の形に歪むのを感じた。
それを意図的に爽やかな笑顔に強制しながら、彼女に向かって歩く。そしてその背中を進の方に優しく押し出した。

彼女はニ、三歩よろけてから、桜庭の方を振り返った。真っ赤な頬と驚きで見開かれた目が、桜庭の笑顔を捉えた瞬間に恨めしそうな表情に変わった。桜庭は彼女に進の方へ行って欲しかったのだが、彼女はそんな桜庭の意図には気付かずに桜庭に向き直る。そして、彼女は何か反論したそうに口を開くのだが、進を見つめていた時のときめきと背中を押された驚きで心臓が早鐘のように鳴っていて、うまく頭が回らず言葉が出て来ない。
普段はクラスメイトの女の子と話していてもあまり表情の変わらない彼女の必死な様子が可笑しくて、桜庭は目を細めて笑った。

彼女は桜庭に無言の抗議を続けていたのだが、
ふと、進の方を振り向いて、硬直してしまった。
桜庭も彼女につられて視線を進の方に送り、その原因を理解した。

進が、いつの間にかこちらを向いていたのだ。

彼女は進と真っ直ぐ見つめあったまましばし硬直していた。
その背中が酷く緊張している。きっと今の彼女は頬を真っ赤にして、その瞳をいっぱいに開いて、唇を真一文字にぐっと引き結んでいるんだろうなと、桜庭は思った。

進は無愛想とも無表情とも、或いは真剣ともとれる絶妙な眼差しで彼女を見つめていたのだが、
ふいに、彼女は小さく「もうだめ」と呟いて、ぱっと踵を返して駆け出した。

振り返った瞬間の彼女の顔は、桜庭の網膜に焼き付いた。紅潮した頬、潤んだ瞳、少しだけ苦しそうに寄せられた眉根と、微かに開いた唇。
彼女はあっという間に駆けて行ってしまう。桜庭は、彼女には悪いなあと思いつつも、先程の彼女の表情に少なからず扇情を感じてしまった。感じずにはいられなかった、と言った方が正しいかもしれない。

彼女が去った方向を見つめ続ける桜庭の横に、進が並ぶ。
そして、いつもと変わらぬ口調で言った、「桜庭は苗字と仲がいいのか」

疑問とも感想とも取れる語尾になんと返事をしようか一瞬悩んだ桜庭は、しかし、進を見つめる彼女の悩ましげな目元を思い出して、苦笑まじりにこう言うことにした。
出来ることならなんでもしてやりたいが、自分が彼女のためにしてやれることはこのくらいしかない。

「進も仲良くすればいいのに」

桜庭の言葉の意図を図りかねた進は僅かに眉を持ち上げて桜庭を見上げたが、すぐにその視線を廊下の奥、つまりつい先程彼女が駆け去って行った方向へ向け直した。

そう、それでいいのだ。
桜庭は自分を納得させるために小さく一度、頷いた。




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