新入生勧誘のポスターが貼られた掲示板の前を通り掛かったとき、私はそこに貼られているポスターを次々と破り捨てていく男の後ろ姿を目にした。
その頭が攻撃的な金色であることを、瞬時に認識する。それは、危機に対する反射行動。泥門高校の生徒ならば、こういう時にどうすればいいかよくわかっているし(正確には、わからされている、と言った方がいいかもしれない)、私も勿論そうするつもりだった。
しかし、たった今彼の手によって無残な姿に代わってしまったポスターの右隣、おそらく次に彼の毒牙にかかるであろうそれを認めた私は、思わず「待って!」と叫んでしまった。
それは、私が作ったポスターだった。
たかだかポスター1枚であの蛭魔くんに物申すなんて、はっきり言ってありえない。
でも、私はそれを理解していながらも、声を上げることを止められなかったのだ。
喉を揺らしてから、壮絶に後悔した。蛭魔くんに目を付けられた人がどんな目に合うかは、去年の一年間でよくわからされている。私は心の中でそっと、穏やかだった日常に別れを告げた。
破り捨てた残骸の上からアメフト部の勧誘ポスターを貼り、次の獲物を屠らんとしていた蛭魔くんの手が、ぴたりと止まる。
彼は視線だけを動かして、私を見た。ややけだるそうに、生来の鋭い三白眼でじろりと私をねめつける。
どくん、と心臓が大きく鳴ったが、私はそれをなるべく無視して言葉を続けた。
「すぐ剥がすから!」
私はそう言うが早いか蛭魔くんの脇に駆け寄り、四隅の画鋲と格闘を始めた。
剥がさなで! なんて言う気は毛頭無かった。彼はここにアメフト部のポスターを貼りたい。私は自分の作ったポスターを破られたくない。ならば私がすべきことはひとつだった。
それに、素早く剥がして立ち去ってしまえば、もしかしたら彼の琴線に触れずに済むかもしれない。そんな淡い期待も、少しあった。
しかし画鋲は憎いくらい深く打ち込まれており、焦れば焦る程手元が震えた。蛭魔くんは何も言わない。それが余計に恐ろしい。
なんとか下のふたつを外したところで、更に大きな問題が発覚した。上を留めているふたつの画鋲に、手が届かなかった。背伸びをしてぎりぎり爪の先がかからない絶妙な位置。私は爪先立ちのままぴょんぴょんと跳びはねては画鋲を引っ掛けようと試みたが、うまくいきそうになかった。
「……お前、」
不意に蛭魔くんに声をかけられた私の肩が、面白いくらいにびくりと震える。
おずおずと彼の方を振り返って見上げた彼は、ズボンのポケットに両手を入れたまま、やや首を傾げるようにして立っていた。
「帰宅部じゃなかったか?」
彼は、私が格闘している吹奏楽部のポスターを目で示しながらそう言った。
私は、遅ぇ! と怒鳴られて奴隷人生に転落してゆく様を一瞬にして描いていたので、彼のまるで天気の話でもするような何の気もない口調に呆気に取られる。
次いで、この男の情報力に改めて戦慄しながら(およそ蛭魔くんに無益であろう私の部活まで記憶しているなんて)、私は「はい、帰宅部です」と控え目に頷いた。
「なるほど、吹奏楽部の奴隷か」
「ち、ちがうよ!」
奴隷、という言葉を口にするときにちょっとだけ彼の口角が上がったのを、私は見逃さなかった。
やっぱりこの人は、生粋の悪魔なんだ。
「吹奏楽部の友達に頼まれて私が、善意で、作ったの!」
「友達に、善意で、ねぇ……」
何かを吟味するように反芻された言葉。今までけだるそうにしていた蛭魔くんの双眸が、急激にすっと細くなる。
そして、その薄い唇を再び開いた彼は、ごく愉快そうに笑っていた。
「いや、苗字さん、そのポスターはそこに貼っていたまえ」
蛭魔くんは、私の手から画鋲をさっと奪って、せっかく外したそれで私のポスターの角をぷすぷすっと留め直してしまった。呆気に取られる私を無視して、彼は続けた。
「いやー、しかし、実によく出来たポスターだなー。うちのポスターもこのくらい完成度高かったらなー」
私のポスターを見ていた彼の瞳が、ぐりっと動いて私をその中央に据えたのがわかった。
蛭魔くんの視線が真っ直ぐ私に向かってくる。どくんどくんと、悪魔に睨まれた私の心臓が忙しく鼓動する。その音をはっきりと感じながら、ほとんど強制された言葉を喉の奥から絞り出した。
「わ、私でよかったら作ろうか?」
「そうか、善意で作ってくれるか!」
善意で、の部分が不自然な程強調されていたが、私はそれに引き攣った笑顔で頷く他無かった。
急速に遠ざかってゆく日常は、こちらを振り向く気配すら見せない。
蛭魔くんの手が、私の肩に置かれる。私を見下ろす彼は、にやりと笑っていた。
「まあ俺達、オトモダチだもんなあ」
蛭魔くんはオトモダチと言ったが、多分それは私の思う友達とは意味が違うのだろう。「奴隷として従順に働け」という副音声がばっちり聞こえる。
観念してこくりと頷くと、彼は「ケケケ!」と、ごく楽しそうに笑った。
蛭魔くんのこんな笑顔は、少し新鮮だった。朝礼や廊下で時々見かける彼は、いつも仏頂面をしていて、悪魔の恐ろしい噂があってもなくても近寄り難いなあと思っていた。
彼の笑顔に釣られて、私の強張っていた顔の筋肉が笑顔をかたどるように動く。
多分だけど、新しい日常も、そんなに悪くないんじゃないかと私は思った。だって彼は、私のポスターを破らなかった。その上、そのまま貼らせておいてくれた。
私は彼に「よろしく」と笑う。
彼は「おう」と応える。
実際には支配被支配の関係が確かにあるのだが、言葉だけを見ればまるで本当に対等な友達のようでもあり。
私はそこに、また微かな期待を重ねてしまっていた。
こうして私は、平穏な日々と引き換えに、悪魔とオトモダチになったのであった。
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