教室に忘れ物をしていた事に気付いた私は、部活の友人たちに先に帰ってもらうように告げて、誰もいない放課後の廊下をのんびりと歩いていた。冬至に相応しく、窓の外は既に暗い。
たまにはこんな雰囲気の廊下を歩くのもいいかな、なんて思いながら真っ暗なB組の教室の扉を引き開けた私は、窓から僅かに差し込むグランドの明かりを頼りに自分の机に歩み寄る。慣れた手つきで机の中を探り、数学の問題集を引っぱり出して、それを鞄に仕舞った。
そして、さあ帰ろうと視線を上げたところで、こちらを見つめる人影が同じ教室の中にいたことに、私はようやく気付いた。
声にならない叫びをあげて尻もちをついた私。勢いで引っ掛けてしまった椅子が倒れる大きな音が、誰もいない廊下に響く。
「そんなにびっくりすることないじゃない」
愛らしい声。少し拗ねたような口調すら可愛く聞こえる、魔性の女。
相馬さんだ。と思った瞬間、私はぱっと立ち上がった。なんだかよくわからない警鐘が、頭の中で鳴り響いていていた。彼女にまつわる噂の、どれが本当で、どれが作り話なのか、私にはわからない。
しかし、だ。とにかく今は、私を真っ直ぐに見つめるこの瞳から逃げないと。僅かな明かりを受けて浮かび上がる相馬さんの笑みは、今までに見たことがないくらいに妖艶で、美しかったが、それが却って恐ろしかった。彼女が何を考えているのかがわからない。その不透明さが、私の心臓をぎゅうっと鷲掴みにする。
「大丈夫だった? 苗字さん」
この眼差しに、声に、搦め取られてしまってはだめだ。
私は「うん」と小さく頷くと、倒れた椅子を直し、「じゃあ、私、帰るね」と告げて踵を返す。そんな私の怯えた背中を、彼女の「また明日ね」という明るい声が追いかけてきた。
急いで飛び出した廊下は、暗く、冷えきっていた。まだまだ続く冬の気配が、静かに私を包み込む。ぞっとするほど綺麗な相馬さんの笑みが、頭から離れない。私はのんびりと歩いてきたこの廊下を、足早に駆け帰った。
乃東生;なつかれくさしょうず
冬至をむかえ、夏枯草が芽を出す季節
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