彼女がここに来たのは、26の冬のことだった。
彼女にしては長く勤めた民間会社の研究室を辞め、トバリの高台にビルを構えるこの団体の研究機関に身を置くことにしたのだ。
研究室の外では、直にシンオウの長い冬が終わり、刹那の春に向かってそれは風情たっぷりに季節が移り変わっていたことだろう。もっとも、ここの研究員たちに季節の移り変わりを愛でるような習慣はなく、彼女もそのご多分に漏れることはなかった。なので、彼女はトバリの春を知らない。
でも、それは仕方のないことだった。ここの研究室は24時間使用できて、うるさい警備員が見回りに来ることもない。備え付けの冷蔵庫には簡単な食事や飲料水が常に補給され、彼女の生命の源であるインスタント麺とシャラサブレも常に充分にある。研究室の奥にはシャワー室と仮眠の取れるベッドまであって、その上洋服の洗濯サービスまでついている。もちろん、研究機材は新しいものが揃っているし、欲しい部材だって発注すれば翌々日には必ず届いた。しかも、予算について小うるさく言ってくる出資者の回し者の影もない(事実、ここに来たばかりの彼女ですら誰に断ることなく部材を注文することができた)。
外に出る必要がなく、己の研究に没頭できる。本当にここは、研究者にとって最良と言ってよい環境であった。――まあそれも、ここで研究されている技術の転用先に目を瞑れれば、の話ではあるが。

結果から言うと、彼女は自分が面白いと思える研究ができればそれで満足だった。それがどんな技術に転用されようが、そしてそれで誰がどんな目に遭おうが、さして気にならなかった。ここにいるような連中はそんな考え方の人間ばかりだったので、とくに罪悪感を覚えることもなかった。研究倫理や感情論、雑多な人間関係などはなく、ただ客観的な事実だけがものを言う。ここは、彼女にとって最高の職場に思われた。

初めてその男に出会ったのは、彼女がここの研究員として迎えられてからおよそ半年が過ぎた頃のことだった。

その日は、今日まで研究してきたエネルギー抽出用機器及び小型ポケモン格納器の実証実験を行うため、研究室の人手がごっそりそちらに取られていた。研究室は珍しく閑散としており、ちょうど問題の時刻にあっては、彼女以外の研究員は自室や仮眠室に下がっていたようだった(彼女にもニャルマーの額のような自室が与えられていたが、研究資料の倉庫と化していたため、必要なものを探す時以外はそこに立ち入ることはなかった)。
応接用のソファ(こんなところまで偉い人が来ることはなかったので、これはほとんど彼女専用のベッドになっていた)でまどろんでいた彼女は、些細な違和感を覚えて目を覚ました。野暮ったい瞼を薄く持ち上げて周囲を見渡し、すぐにその違和感の原因を見つけ出した。
見慣れない背中。それが、彼女の机に腰掛けて、なにやら険のある雰囲気を放っていたのだ。その大柄な男は他人の椅子に堂々と座り、どうやら彼女の机の上にあった資料に目を通していたらしい。レポート用紙を捲る乾いた音が、ふたり以外に人のいない研究室に小さく響いていた。

彼女はおもむろに立ち上がると、男の方に歩を進めた。足音や気配を隠さずに歩いたので、人が近付いてきたことは容易に分かったはずだ。しかし、男は資料に視線を落としたまま動かなかった。静かな、しかしどこか威圧的にも思える居住まいに、彼女が息を飲んだのは一瞬。

「どちら様?」

彼女の素っ気ない問いに、男は問いを重ねて返した。

「なぜこの理論に沿って開発をしなかった」

自分の問いに答えないこの男の問いに答えてやるのは少し癪だったが、なんだか回答を拒むことを許さない力が、その声にはあった。
それは、自分が分かればいいと思って書いた説明不足のメモ書きを簡単に理解してしまった男の知性に対する敬意だったのかもしれない。その声色の向こうに一切の感情が読み取れない事への僅かな恐怖だったのかもしれない。或いは、走り書きに落とされた視線の鋭さと、その薄青い瞳の奥に落ちた影への無意識の畏怖だったのかもしれない。
とにかく彼女は、この男に望む答えを与えてやった。自分と、ほとんどの研究者たちはこの理論に沿って開発をするべきだと主張したこと。しかし古参の研究員とそのお仲間たちが、どうしても彼らの主張を曲げなかったこと。その後、彼らがどういう手を使ったのかは知らないが、多くの研究者が彼らの主張に同意し始めたこと。結局、自分たちは開発の一線から外され、今回の実験には立ち合わず研究機材保守の名目でここに残されたこと。

「例の二次電池は発火したでしょうから。個人的にはそれまでの時間経過が細かに記録されていることを願います。あの方法で開発を続ける人たちには、それが何より必要になるから」

言って男の手から資料をさっと奪い取った。資料を追った男の視線と彼女の憂いを帯びた視線が、緩く交錯した。
この老成した男は、新しくこの研究室に配属されたのだろう。おそらく、私の代わりに。彼女は男の暗く落ち窪んだ眼窩と、そこに鈍く光る頑固な眼差しを見て、思った。ああ、きっとこの人も苦労をしてきたんだろうな、と。そして、ここでもまた同じ思いをするんだろうな、と。

彼女は後輩たる男にかけるべき言葉をもっていなかった。「こんなとこじゃなくて、もっといい職場を探したら?」なんて、とてもじゃないが口にできない。なぜなら、そんな場所などありはしないからだ。
彼女は研究ができればそれでよかった。しかし同僚の嫉妬が、上司の無能が、会社の裏切りが、親の押し付ける女としての幸福な生き方が、それを全力で許さない。流れ流れてこんな反社会勢力の一員になってしまった。ここは少しはましだった。彼女の主張に耳を傾け、正しいと思えば一緒に声を上げてくれた人がいた(所属団体の社会的な質を落とせば落とすほど話の通じる人間がいるのはなんともおかしな話だ)。――だが、それだけだ。

彼女はその資料を慣れた手つきでくずかごに突っ込むと、机の上から持ち込んだ私物を――学生の頃から愛用しておりもうすっかり手に馴染んだ筆記具と、もう随分使っていなかったマグカップを手に取り、踵を返した。
彼女はこれまでも人間や世間を倦む度にこうして職を辞し、しかし自身の知的欲求に叶わず研究職を求めてきた。でも、それもこれで終わりだ。もうこの世界のどこにも、正論と事実で話ができる場所はないように思われた。彼女の胸中は至極平静であったが、自身で遠ざけた心の奥底で、彼女は深く絶望していた。

「……逃げることはない」
「、は?」

自分に投げかけられた言葉の意味を諮りかねて、彼女は男を振り返った。
逃げるな、とは、彼女がこうしてどこかを去る折に度々言われてきた言葉だった。彼女は自身が他人に理解をしてもらうため、また環境を変えるための一切の努力を放棄していた。理由は簡単、意味がないから。彼女はそれまでの人生でそう結論付けていたのだ。なぜそのように行動するようになったのかを丁寧に説明していた時期もあったが、それすらも徒労と理解してからはこういうことを口にする連中とは取り合わないようにしてきた。
だから、この時も、本来ならば立ち止まったりすることはなかったのに。なにかが、彼女にそれを許さなかった。この男の声色は、逃げるなと言いながら彼女のその逃避を非難してはいない。彼女はその言葉に、……正確には、その言葉によって自身の胸に芽生えた感情に、言いようのない興味を覚えたのだった。

「正しい者が誤った者に道を譲ってやることが、果たして正しいだろうか?」

男の言いたいことはわかった。彼女自身も、正しいことが、ただ正しいというだけで支持される世の中ならばどんなによかったことだろうと心から思う。でも。

「でも、世界はそのようにできてはいない」
「ならば、変えてしまえばいい。我々の手で」

彼女が絞り出した言葉に、男は力強い語調でそう返した。暗い瞳の奥で、あの我の強い光が眩しいほどに輝いていた。
そんなことは不可能だ、あってはならない、と彼女の本能は告げる。しかし、同時に彼女の理性はあくまで冷静に思考を続けた。それは、発想の転換だった。彼女は常に試行方法に誤りがあるのだと思っていた。世界は完全で、間違っているのは自分の方だと思っていた。しかし、この世の論理の方に誤りがあったのだとしたら。どれだけ方法を改善しようとも、正しい結果が導かれることはない。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう!
――論理を見直し、そして正さなければ。科学者としての彼女は、畢竟そう思い至ったのであった。

「あてはあるの?」

彼女の問いに、男は「付いて来い」とだけ答えて歩き出した。研究室を抜けていくつかの階段を上り下りした先に、淡い緑色に輝くパネルがあった。彼女はそれに見覚えがあった。彼女がここに来て最初に取り組んだ仕事が、それ――空間相転移パネルの開発だった。彼女が完璧に近い基礎理論を説いた矢先、上から中止の命があり、あの事業は頓挫したものとばかり思っていた。しかし、これがこうして完成している以上、それは誤りだったと認めざるを得ない。
そして、彼女は悟った。この組織には、自身が所属している研究室とは別の、おそらくはより高度な研究施設があることを(これまで彼女がいた研究室は基礎理論を完成させるだけの、いわばそこの「下請け」のようなものだったのだろう)。そして、この空間相転移パネルの先にはそれがあり、――そこに足を踏み入れたら最後、もう戻っては来られないであろうということも。

男は彼女を値踏みするように一瞥すると、自らパネルに乗った。男の大きな背中が一瞬揺らぎ、僅かに膨れ、かと思えば急速に色を失って立ち消えるように姿を消した。

彼女に迷いはなかった。今まで彼女を支配していた倦んだ絶望も、もはや彼女の中にはなかった。彼女は男の後を追って、淡く輝くパネルにその身を預けた。頭の中央で光が弾けて、自分の体が自分の管轄を離れて浮遊していくような感覚に襲われた。恐ろしくはなかった。これから作り上げる世界と、その真ん中にいるあの男のことを思うと胸が踊った。
それは彼女が27になったばかりの夏のことだった。

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