律儀な人だな、と思った。
男の子のほとんどは、プリントを後ろに回す時に受け取る側の事なんて考えていないかのように、手首だけでひょいっと、有り得ない角度でプリントを渡してくる。でも東峰くんはいちいち体をちょっとひねって、私が受け取りやすいように丁寧にプリントを差し出してくれる。たったそれだけのことだけれど、毎日何度も繰り返されるその行為は、私の頭に東峰くんは律儀な人だという情報を刷り込んでゆく。
そういえば、席替えをした日も、彼は律儀だった。
いちばん後ろの席をゲットしてラッキー! と思っていた私に、彼は席の交換を申し入れてきた。絶好の昼寝スポットを譲るとか意味がわからなかった私が「え? 絶対いやだけど」と言うと、東峰くんは「え? あ、そう? そっか、うん、ごめんなさい」とめちゃくちゃ歯切れの悪い謎の謝罪を私に寄越した。
聞けば、彼は席替えの度に、後ろの席の人から、背中がでかくて黒板が見えない! と苦情を入れられるのだと言う。「目の前にいて、すみません」と肩を落として言う東峰くんの申し訳なさそうに下がった眉が、とても印象的だった。
続く授業中の彼も、これまた律儀で。
その大きな背中を猫みたいに丸めて、少しでも私の視界を遮らないようにしてくれたのだ。彼は授業が終わって休憩時間になる度に、ぐぐっと背骨を伸ばして深く息をつく。私なんかは、辛いならやらなければいいのに、と簡単に思ってしまうけれど、たぶん、彼はそういう人なのだ。
見かねた私が東峰くんに授業中の猫背を止めるよう頼むと、彼に「え? でも、そしたら苗字さん黒板とか……」と謎の思いやりを発揮された。スポーツマンのくせに自分の体に無理をさせるのは良くないと思う。「いや、私、授業中は寝るんで。東峰くんが壁になってくれてる方がいいんで」ときっぱり言うと、東峰くんはまた眉毛をハの字に下げて、でも今度は、ちょっと笑った。
「苗字さん、寝ちゃだめだろ」と困ったような笑顔で私の心配をしてくれる東峰くんにつられるように、私もくすりと笑った。
毎朝私に「おはよう」と言ってくれる東峰くん。
授業中に舟を漕いでいた私が落とした消しゴムを拾ってくれる東峰くん。
私に言われてからは、きちんと背筋を伸ばして授業を受けている東峰くん。
消しゴムのカスは床に落としたりしないできちんとごみ箱に捨てに行く東峰くん。
ふとした拍子に目が合ってもつれなく視線をそらしたり出来ない、毎回ちょっとはにかんだように口角を持ち上げてくれる、律儀でシャイな東峰くん。
この席になってから、私の視界はいつも東峰くんでいっぱいだった。
律儀な東峰くんを見ているだけで、私はなぜだか、とても幸せだったように思う。
東峰くんの後ろの席になって一ヶ月が過ぎた時も、やっぱり彼は律儀だった。
教卓の上に置かれたお菓子の箱からクジを引いて新しい席の場所を確認した私は、自分の席に戻ってクラス全員がクジを引き終わるのをぼんやりと待つ。最後から4番目にクジを引いた東峰くんが席に戻ってきた、と思った瞬間、「はいじゃあ移動してー」と先生が言って、教室が一気に騒がしくなった。
私も立ち上がって椅子をひっくり返して机の上に乗せ、机を持ち上げる――その直前に、なんとなく一回だけ東峰くんの方をちらりと見た。目が合った。がたがたと机を動かす音が響く教室で、彼はいつものように眉尻を下げて微笑んで、「あんまり居眠りするなよ」とやんわり言った。最後まで私の心配をしてくれる律儀な東峰くん。
そうだね。もう私を先生から隠してくれる東峰くんの逞しい背中はない。寝ている最中にうっかり落とした消しゴムを拾ってそっと机に置いておいてくれる律儀な右手もない。私はそれがちょっとだけ悲しくて、自分の眉がハの字に下がるのを感じた。でも、こんな、たかが席替えで悲しい顔をするなんておかしいでしょと思って、自分の言うことをきく口角だけは持ち上げる。私は今、東峰くんみたいな顔をしてるんだろうか。頭のすみでそんなことを思いながら私は「善処しまーす」とだけ言って、彼にそっと背を向けた。
その翌朝、私は東峰くんの更なる律儀さに驚かされることになる。
部活の朝練を終えて教室に上がってきた東峰くんが、自分の席につく前に私のところにきて「おはよう」と挨拶をしてくれたのだ。
呆気にとられた私が「おはよう」と返すと、彼はまたちょっとだけはにかんで「えーと、それだけだから」と短く言い残し、自分の席へと去っていった。
もう席も離れてしまった私に挨拶をしに来てくれるなんて、なんて律儀な人なんだろう! 私はなぜだかどきんどきんと騒がしい鼓動を感じながら、律儀な東峰くんを見ているときに感じる幸せが胸一杯に広がってゆくのをしっかりと噛み締めた。顔の筋肉から力が抜ける。だらしなくにやけてしまうのを抑えられなくて、私は両手で顔を覆った。
どうしよう。なんで私、今まで気付かないでいられたんだろう。
だめだ、私、東峰くんが好きかもしれない。
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