あずまねー、と、何処からか自分を呼ぶ声がした。自動販売機に小銭を投入しようとしていた手を止めて周囲を見回してみたが、自分を呼んだ人物は見当たらない。気のせいかな、と首を捻りつつ再び自動販売機に向き直ると、また「あずまねー、こっちだよー」と同じ声が聞こえてきた。どうやら、気のせいではなかったらしい。
「こっち! こっち!」
そう繰り返す声を頼りに視線を左に滑らせる。呼ばれるままに歩を進め、打ち放しのコンクリートにトタン屋根があるだけの渡り廊下と、グラウンドと同じ胡粉色の土が敷かれている地面の境界線に立った旭。彼はその先に生えているまずまず立派な樹木の枝の先に、見覚えのある女子生徒の姿を見付けて顔を青くした。
「あずまね、助けてー」
声の主はクラスメイトの苗字名前だった。助けて、という言葉の力に負けた旭は、おずおずと彼女の方に近付いてゆく。
遠くから見た時にはわからなかったが、近付いて見上げてはじめて、彼女のいる枝がかなり高いところにあることに気付いた。彼女は旭を見下ろして、えへへ、と照れたように笑い、頬を人差し指の爪の先で三度掻いた。どうやら、高所に怯えているわけではないらしい。
今まで状況が全く理解出来ずにただただ戸惑うだけだった旭の心に、名前の笑顔によって少しの余裕が生まれた。彼は見上げる先の女子生徒に、とりあえず質問を投げ掛ける。
「え、え、なんでそんな……」
動揺を隠せない旭のすこし掠れた声に、名前はどこかあっけらかんとした調子で「いや、猫がさ」と返した。
「猫?」
「うん、下りられなくなって困ってたんだよね」
にこりと笑ってそう言った彼女に、旭はなんか漫画みたいな女の子だなあ、という感想を抱いた。教室でも男女問わず人気のある明るい彼女。猫を助けるために木に登って、下りられなくなり、通りすがったクラスメイトに助けを求める。まるでこれから素敵な物語が始まってゆくような展開に、旭は思わず顔をしかめて笑った。確かに、明るい彼女にはこんな王道ストーリーはお似合いかもしれない。でも、そこに自分がいることが、なんだか不釣り合いに感じられたのだ。
「あ、東峰笑ってる! ひどい!」
自分を指差して打ち拉がれたように言った名前に、旭は「ああ、ご、ごめん。違う、そんなつもりじゃ」と苦しい弁解をする。こういう誤解は、旭にとってはしばしばあることだった。彼の曖昧な態度があらぬ誤解を招き、その度に彼は謝罪を重ねる。
名前は再び「すみません」と謝辞を述べた旭ににかっと笑いかけ、「ゆるす!」とわざとらしいくらい尊大な態度で言った。見上げる旭は、その笑顔に思わず目を細めてしまった。まるで頭上に輝く太陽のように、眩しかった。
旭は反射的に彼女の笑顔から逃れるように、右足を一歩引いた。それから後付けで出て来た言葉を、さも正当なことのように述べた。
「えっと、じゃあ、先生、呼んでくるから」
ちょっと待ってて、と言い残してこの場を去ろうとした旭を、名前の声が追いかけた。酷く真剣な声だった。
「ま、待って!」
職員室に向けて反転させていた体を、再び彼女の方に向け直す。見上げた先の彼女は、目をぱちっと見開き、頬をわずかに紅潮させていた。どこか緊張したように引き結ばれた口元と張り詰めた眦、そして、先程自分を呼び止めた必死な調子の声。その全てが、旭には理解不能だった。なんであの子は、こんなに必死に自分を呼び止めたのだろう? 旭がその答えを導き出すべく思考を始めるより先に、名前は緊張した顔の筋肉をへにゃりと緩めて柔らかい笑みを形作った。そして、そのたおやかな笑みからは想像もつかないことを言ってのけた。
「私が、ひょいって飛び下りるから、東峰が受け止めればいーじゃん」
えええええ、という母音の連続が旭の口から漏れ出した。「あ、危ないだろそれは」という当然の抗議は、「そうかな? 大丈夫でしょ!」と謎の自信に満ちた笑顔によってあっさりと撥ね退けられた。再び、えええええ、と間延びした声を漏らす旭の視線の先で、名前の体を支えるために枝に着いていた彼女の腕が、恐る恐る離される。
「やっ、やめろよ! 早まるな、先生呼んでくるから!」
もしも自分のせいで女の子に怪我をさせるようなことになったら。そう考えるだけで血の気が引いていく。木から下りられなくなった女の子を助けるのは自分じゃなくて、もっと別の、誰かであるべきなのだ。彼女の笑顔に見合うだけの、もっと、よくわかんないけど、別の誰か。
「俺じゃ無理だから!」
真っ青になって叫んだ旭に、名前は鮮やかに笑いかけた。逆光でもないのに旭を眇めさせる、どこまでも晴れやかな笑み。
「東峰だからだいじょーぶ!」
そう言って彼女は、両腕を旭の方に伸ばす。彼に抗議の暇を与えることなく、その体が枝を離れた。
まるでスローモーションのように、ゆっくりと太陽が落ちてきた。
旭はもうなにも考えずに、彼女に向かって両腕を差し出した。
自分の上に落ちてきた彼女の下敷きになって旭は仰向けに倒れ込む。慌てて「だっだだ大丈夫?」と問いかけると、彼女は自分の胸の上でにっこりと笑って右手でピースを作った。
ほっと息をついた旭は、改めてにこにこと笑う名前を見つめる。明るい人気者の笑みがそこにあったが、不思議と、以前のように逃げ出したいとは思わなかった。
「通りかかったのが東峰でよかった」
ただ、彼女が主役の物語に巻き込まれてしまったことで、彼のなにかが変わってしまうことはどうしても避けられない。動き出した物語の中、旭は早まってゆく自分の鼓動の意味を思って、静かに途方に暮れていた。
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