お世辞にも綺麗とは言えない借家に、マリルリと一緒に上がり込む。
色褪せたフローリング。日に焼けた壁紙。今はもう主のいないイトマルの巣が、部屋の隅にいくつか見える。
内見の時も思ったけど、やっぱり汚い。名前が思わず顔をしかめた瞬間、彼女の背後でマリルリが鳴いた。彼女らしい、はっきりとした明るい声。マリルリはそのまま名前の脇を抜けると、室内で振り返って名前のことを呼ぶように何度も鳴く。彼女がぴょんぴょん飛び跳ねるたびにうっすらとほこりが舞った。ああ、やっぱりすごく汚い。そう思った名前の顔には、あまりに嬉しそうに飛び跳ねる相棒のせいで、自然と笑みがこぼれていた。
マリルリが、借家の中でほこりが舞うほど自由に飛び跳ねている。それは、名前が心から望んでようやく手に入れた光景だった。
……ここに来るまで、本当に長かった。
マリルリはそんな素振りなんて見せないけれど、たくさん苦労もさせてしまったと思う。
名前は室内履きに履き替えて上がり框を跨ぎながら、かつて一人暮らしを始めた頃、人生で初めて借りた部屋のことをぼんやりと思い出していた。
それは、コガネシティの賃貸マンションだった。専門学校へのアクセスはそこそこ。部屋もキッチンも収納もなにもかもが狭かったが、オートロックで5階のお部屋は、初めての一人暮らしには大きな安心材料だったし、なにより。そのマンションは『小型ポケモン可』だと、賃貸物件の情報サイトに書かれていたのだ。
内見も済ませ、いざ契約する段になって、一緒に暮らすのが水タイプのポケモンの場合は、加入する保険に水タイプ特約なるものをつけなければならないことを聞かされた。言われるままに特約をつけると、保険料はおもしろいくらい跳ね上がった。しかも、建物の契約書には、水タイプのポケモンはお風呂場でしかボールから出してはいけないと定められていた。
初めての部屋探しだった彼女の口から、純粋な疑問がこぼれた。「なんで?」と呟くと、不動産屋の若い営業は困ったように笑いながらこう言った、「さあ……こういうものなので」
その時の名前は漠然とした不満を覚えてはいたものの、若い営業の言った「こういうもの」という言葉に反論することはなかった。反論できるだけの知識も、経験も、度胸も、なにひとつ持ち合わせていなかったのだ。それに、新学期の始まりが差し迫っており、彼女には生活の拠点が必要だった。結局名前はその契約書にサインをし、二週間後にはその賃貸マンションに引っ越したのであった。
今思えば、あのお部屋は設備も整っていて、手入れが行き届いていて、それに何よりきれいだったなあ。名前はどこか遠い昔のことのように感じられる記憶を頭の片隅に思い浮かべながら、持ち込んだバケツとモップをほこりだらけの部屋の真ん中に置く。そして、部屋の中を駆け回るマリルリにこう声をかけた。
「ね、マリルリ、掃除を手伝ってくれる?」
この荒れた部屋で生活を始めるには、まずはほこりとイトマルの巣を払って、空気を入れ替えて、今晩の寝床を確保するところから始めなければならない。コガネのマンションと比べて落差が大きすぎる。が、そういう条件でこの部屋を借りたのだから、それについて文句を言う気は名前にはなかった。
名前に呼ばれたマリルリが、ばねのような尾を大胆に揺らして彼女の方を振り返る。その愛らしい丸い瞳が大きな窓から差し込む光を取り込んできらきらと輝いているのを見ながら、名前はモップを持ち上げてこう続けた。
「水鉄砲、お願い」
特徴的な長い耳でその指示を聞いたマリルリは、「任せて!」と言うように短く鳴くと、すうっと息を吸い込む。そして、部屋全体を水洗いするように水鉄砲を放った。
跳ねた水の飛沫が、名前とマリルリを容赦なく濡らしていく。濡れて重くなった名前の前髪と対照的に、水を弾く体毛に覆われたマリルリの体は、水を払うように頭を振るとすぐにからっと乾いた。
重くなって額に張り付いた前髪を分けると同時に、懐かしい記憶が名前の脳裏をよぎった。
それは、まだ彼女が幼い子どもだった頃のこと。故郷の田舎にある実家で、マリルリはこんなふうに、ことあるごとに名前に水鉄砲を浴びせてはその前髪を濡らしていたのだった。
名前は、絵を描くのが好きな子どもだった。
絵がうまいと褒められたからだとか、コンクールで賞をとったからだとか、それらしい理由があったわけではない。ただ彼女は、手を動かして何かを形にするのが好きで、その手段としてたまたま絵が身近にあったのだ。
学校から帰ると、彼女は宿題もそこそこに絵の具を広げる。そして、一度集中すると誰が声をかけても耳に入らない。そのまま放っておくと寝食を忘れてずっと筆を走らせてしまう。
「ごはんできたわよ」「お風呂入りなさい」「まだ寝ないの?」……そう何度も声をかける母親の姿を見ていたマリルリは、ある時、「いい加減お風呂入りなさいよ」と小言を言う母親の脇をすり抜けて名前に近づくと、その頬にぴゅっと水鉄砲を浴びせかけた。名前と母親の瞳が、そろってぱちくりと瞬く。そんな二人の真ん中できゅるきゅると鳴いたマリルリは、呆然とした様子の名前の手を引いて彼女を風呂場へ連れて行ったのだった。
それ以来、マリルリは名前がやるべきことをほったらかしにしていると、その頬に優しく水を吹きかけるようになった。
文字通り冷や水を浴びせられた名前は、「もう、いいところだったのに」とぶつぶつ言いながらも、マリルリに手を引かれて立ち上がる。濡れた前髪を撫でつけながら食事をしたり、宿題をしたり、はたまたお風呂に入ってベッドに向かうのが、いつの間にか名前とマリルリの日常になっていた。
それを見ていた名前の母親は、ある時マリルリに「名前のこと、これからもお願いね」と冗談半分、本気半分で言った。名前は「別にひとりでも大丈夫なんだけどなあ」と根拠のないことを言って、その唇を少しだけ尖らせる。マリルリはそんな名前のことを見やってから母親の方に向き直ると、高らかに鳴いて胸を反らせていた。
おそらくマリルリは、この時の名前の母親の言葉をずっと覚えていたのだろう。
田舎の広い持ち家に慣れたポケモンにとって、都会の借家での生活は時に不便だ。だから名前は、専門学校に進学して一人暮らしをすることになった時、彼女のためにマリルリを実家に残して行くつもりだった。
しかし、いつも素直なマリルリが、この時だけは絶対に言うことを聞かなかった。名前がなんと説得しても決して首を縦に振らなかったのだ。
埒が明かない。そう思った名前は、こっそり彼女を置いてひとりでお部屋の内見に行くことにした。しかしマリルリは持ち前の聴力でその気配を察知すると、身支度を終えていた名前に正面から水鉄砲を浴びせて抗議をしたのだった。
ここまでされては仕方がない。マリルリを置いていくことを諦めた名前は、彼女を連れて部屋探しに赴いた。
予算と希望の部屋の条件(バストイレ別で、収納が広くて、きれいで、2階以上のお部屋がいいです)を伝えると、まずはそれなりに希望通りの部屋が提示された。しかし、営業担当の店員と話す中で隣にいるマリルリのことを伝えると、提示された資料は引っ込められて、代わりに古かったり、狭かったり、学校から遠かったり、なんだかいまいちな部屋ばかりを紹介されてしまった。
ポケモン可の借家は、人間だけが住む部屋と比べて、家賃の相場が高くなるのだという。名前の予算内では、何かを妥協しないとマリルリと住める借家は借りられないということらしかった。
何件かの部屋を見せてもらい、またインターネットで調べながら複数の不動産屋も回ったが、どの店舗でも同じようなことを言われた。
一日歩き回って疲れていた名前は、もう最後に見た部屋を契約することにした。狭かったが、仕方がない。ここなら学校も近いし、きれいだし、マリルリも安心して過ごせるだろう。そう思っていたのだが、実際には水ポケモンはお風呂場以外でボールから出すことは禁止で、水漏れ事故防止のため技も使ってはならず、しかも万一に備えて高い保険料まで取られてしまったのだった。
今の名前なら、あの不動産屋も、あの部屋も、決して悪徳だったり法外なことをしていたわけではないと理解できる。
しかし、当時の名前はまだ世間知らずで、若く、素直だった。漠然とした不満を感じながら、しかし同時に「社会ってこういうものなんだろうな」と、それをなんとなく了承したつもりになっていたのだ。
もしも、マリルリが一緒に来てくれていなかったら。名前は今もあの不動産屋の若い営業の言った「こういうもの」という言葉に縛られていたかもしれない。
マリルリの放つ水鉄砲が、部屋のほこりやイトマルの巣を洗い流していく。
名前は濁った水をモップで玄関土間に流してから、今度はマリルリにバブル光線をお願いした。マリルリは役に立てることがうれしいのか、元気よくきゅるっと鳴いて、虹色に輝くシャボンを勢いよく吐き出した。
すぐにもこもこの泡が床一面に広がる。名前は持ち込んだ掃除用具の中から雑巾を取り出すと、水をざっと流すだけでは落ち切らなかった長年の汚れを落とすため、床をごしごしとこすりはじめた。
そんな名前の向こうで、マリルリはぷくぷくと優しく泡を吹いて遊んでいた。舞い上がったシャボン玉が窓から入ってくる風に舞って、楽しげに煌めいている。名前はそれを横目に見ながら、その眦を優しく細めた。
そう、新生活の初めにかけられた「こういうもの」の呪縛を解いてくれたのは、あのシャボン玉だったっけ。
コガネの借家でマリルリと窮屈な共同生活を送りながら、名前は美術専門学校で絵とデザインを学んでいた。彼女は好きだった絵を一生の仕事にしたいと考えていたのだ。卒業までは3年間。その間に、美術の基礎からデザインの技法、それを仕事に繋げるための企画力や応用力を身に付けることになっていた。
マリルリを浴室に押し込めて、名前は勉学に打ち込んだ。もともと集中力はある方だった彼女は、一日の大半を授業と課題に費やしても全く苦ではなかった。むしろ、自分の頭の中にあるものが明確な形になるのが楽しかった。
そうして名前が寝食も忘れて課題に打ち込んでいた、ある夜。
不意に、彼女の頬に、なにか冷たいものが触れた気がした。それが何なのかを考えることなく、ほこりを払うように右手を持ち上げる。すると、その指先にまたも冷たいものが触れた。
なんだろう、今、いいところなのに。わずかにいらだちを覚えながら視線を右に流した名前は、そこにぷかぷかと浮かぶシャボン玉を見つけて、小さく首を傾げた。なんで室内にシャボン玉? そう思いながら、シャボン玉がふわふわと飛んでくる方を振り返る。
そこには、浴室に押し込められたマリルリがいた。開け放った扉の向こうで、名前と目が合ったマリルリがにこりと笑った。それから、彼女は威力を落としたバブル光線を放つ。シーリングライトの光を受けて淡く輝くシャボン玉が狭い部屋の中を漂って、名前の鼻先で弾けて消えた。
もう夜も遅いよ。ご飯を食べて、早くお風呂に入らなきゃ。明日も早いんでしょう? まるでしっかり者の姉が手のかかる妹にそう言うように、彼女は抑揚を付けた声で優しく鳴いた。
田舎の実家にいた頃は、マリルリは家の中を自由に歩き回って、飛び跳ねて、時に名前を現実に引き戻すために水鉄砲を浴びせては笑っていた。しかし、どうだ。今の彼女は狭い浴室から出ることもできず、水鉄砲も禁止されてしまっていた。そんな状況でもマリルリは名前のことが気がかりなようで、自分にできる精一杯の気遣いを――シャボン玉を吹きかけることで名前の健康な生活を守ろうとしてくれたのだった。
マリルリはこれまで、自分の扱いに対して一切の文句を言わなかった。狭い浴室の中でも、彼女はにこにこ笑っていた。だから名前も、マリルリを浴室に押し込めることを仕方ないと割り切って受け入れていた。なんなら、自分は「都会の暮らしは窮屈だから」と止めたのだ。にもかかわらず、ついてきたのはマリルリの意志だ。だから少しくらいの不自由は受け入れてもらって当然だとさえ、心のどこかで思っていた。
しかし、この瞬間、名前の心の中で何かがぱちんと弾けた。
私は間違っていた。これではいけない。マリルリが名前の健康な生活を守ろうとしてくれているように、名前もまたマリルリの自由で健康な生活を取り戻さなければならないと、強く思ったのだ。
そうして名前は、マリルリとの本当の生活のために、あっさりと絵の道を捨てることにした。
未練が全くなかったと言えば、それは嘘になる。しかし、目指す道が決まってしまえば、ある意味では簡単だった。
名前は専門学校をやめ、コガネの建築事務所で事務として働きはじめた。電話対応や書類仕事の傍ら、事務所のチラシやWebバナーを作成する。そうしてお金を貯めながら、建築系の大学に入り直すための勉強を進めていった。
自分とマリルリが暮らしていける借家がないなら、自分で作ればいい。建築を学び、資格を取り、水ポケモンと一緒に安心して暮らせる借家を私がデザインする。若く、無謀で、しかしデザインには覚えのあった彼女は、畢竟そう思い至ったのであった。
建築の勉強をする上で、美術やデザインを学んだことは大いに役立った。カロスでは建築は芸術の基盤としてその体系の一番目に置かれるほど、両者の関係は深い。美術史、デッサン、空間把握、デザインの技法。そのどれもが無駄になることなく活かされた。
彼女の目標を知っている事務所の先輩たちは、仕事の合間に実務や法規の説明、設計に必要なPCソフトのレクチャーも喜んで行ってくれた。
そして、あの夜から2年後。名前は晴れてカナズミ工業大学の学生として第二の新生活を始めたのだった。
二度目の部屋探しも、やはり簡単にはいかなかった。
水ポケモンを室内で自由にさせていい借家は見つからない。しかし、今度は妥協できなかった。何軒もの店舗を渡り歩き、地元の小さな不動産屋で「なんとかなりませんか」と食い下がった。名前の真剣な表情と、隣で大人しく微笑むマリルリ。彼女らをじっと見ていたベテラン事務員風の女性が「ねえ、あの大家さんのところは?」と営業の若い男性に声をかけた。
「え、あのお化け屋敷みたいなところですかぁ?」と男が尋ね返したのを無視して、女性はこう続けた。
「正直、あまりいいお部屋ではないです。古くて入居希望者もいないから、大家さんがもうあまり手を入れていないんですよ。でも、だからこそ相談できるかもしれません。水ポケモンの件、ちょっと聞いてみましょうね」
そう言うが早いか、彼女はどこかに電話をかけた。そして明るい調子で5分ほど話して電話を切ってから、にこりと笑ってこう言った、「マリルリちゃん、オッケーですって!」
若い営業の男性と内見に行った部屋は、想像以上に汚かった。何もかもが古く、歪んで、錆びついていた。でも、ここならマリルリと一緒にいられる。
以前のワンルームマンションよりも、部屋も収納も格段に広い。大学までは自転車で10分ほど。通学途中にお店やポケモンセンターがあるのもうれしい。今は荒れ放題だが庭があるのも、実家を思い出して悪くない。
不動産屋の女性が大家さんと交渉をしてくれて、取り壊すまでの期間限定で好きにDIYをしてもいいという条件を取り付けてくれたのも大きかった。自分の頑張り次第でこの部屋はいくらでも生まれ変わることができる。名前は、水タイプのポケモンを浴室から出してはいけない決まりも保険の特約も必要ないこの借家の契約書に、晴れやかな気持ちでサインをしたのだった。
開け放した窓から、春を告げるスバメの鳴き声がかすかに聞こえてくる。
泡だらけの床を磨き終えた名前は、立ち上がってぐっと体の筋を伸ばしてから、マリルリにもう一度水鉄砲をお願いした。
「はー、終わった終わった。マリルリ、泡を流して!」
四つんばいでの作業が終わったからか、その声には解放感が滲んでいる。名前の声の調子が明るいことがうれしかったのか、マリルリはぴょんと跳ねてから勢いよく水鉄砲を放った。泡を押し流して、なおも水鉄砲の勢いは衰えなかった。正面から水鉄砲を浴びた名前はびしょ濡れになってしまう。前髪から水を滴らせる名前を見て、マリルリは実家にいた頃のように大きく声を上げて笑った。あちこちに水たまりの残る室内で、マリルリが楽しそうに跳ねるたびにぴしゃっと飛沫が舞う。
昔は、マリルリに水鉄砲を浴びせられるのが嫌だった。大好きな絵を描く手を止められるのがもどかしかったし、濡れた髪が額に張り付くのも少し気持ちが悪かったから。
でも今は、それがこんなにも嬉しい。名前はぺたんこになった前髪もそのままに、マリルリと顔を見合わせて笑い合った。
マリルリの笑顔を見ながら、名前はこれからのことを考える。
好きに手を入れていいとのことなので、徹底的にやらせてもらうつもりだった。だって、ここでは、なにを「こういうもの」にするかは全て私たちが決められるんだから。
マリルリが心置きなく過ごせるように、床材は耐水性のものにしようと思う。そして防水の変性シリコンで隙間を埋めれば、きっともう水タイプ特約は必要ない。壁紙は湿気に強いものに張り替えて、向こうの一面はマリルリの好きなきのみ柄のアクセントクロスにしよう。水回りも、名前とマリルリの双方が使いやすいように手を入れるつもりだった。今は荒れ放題だけれど、庭がきれいになったら小さなプールを作るのもいいかもしれない。
マリルリの笑顔を見ると、アイデアはどんどん浮かんできた。
名前はマリルリの頭を小さく撫でると、びしょ濡れのままモップを手にして掃除を再開した。早く部屋をきれいにして、改装に取りかかりたくて仕方がなかった。
名前は黙々と手を動かしながら、思った。ここは、私の初めてのポートフォリオになるだろう――と。
だからここには、マリルリの笑顔をなるべくたくさん詰め込みたい。なぜならそれは、ポケモンと自由に暮らせる借家をつくるという彼女たちの夢の、かけがえのない第一歩になるのだから。
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