ナマエのボールから飛び出したキングドラは、目の前に広がるターコイズブルーの海へ迷わず飛び込んだ。
跳ねた飛沫がナマエの服を斑に濡らしたが、彼女はそれを気にすることなく微笑んで、いつものように「いってらっしゃい」と軽く手を振る。キングドラもいつものように一度頷いてから、とぷり、と自分の体と同じ色をした海に潜ってゆく。

そこには美しい世界が広がっていた。
限りなく透明に近い海水を通して海底に届く日の光が、そこに息づく色とりどりの珊瑚礁と海のポケモンたちを照らす。突然目の前に現れたキングドラに驚いたケイコウオの群れが珊瑚礁の影にさっと身を隠す。彼らの尾鰭にあるマゼンダの斑点が鮮やかな軌跡を描いて消えて行くのを視界の隅に捉えながら、キングドラは白い光が揺らめく海の中を沖合目指して泳ぎはじめた。

暖かい海を素早く泳ぎ進んでゆくと、眼下に広がる色とりどりの珊瑚礁が溶け合って不思議な色彩を形成する。それは、今まで見てきたたくさんの珊瑚礁の中でも一二を争う美しさだった。
ゆっくりとたゆたうように泳げば、きっととても気持ちがいいのだろう。そう思いながらも、彼は沖へ沖へと進んでゆくのを止められなかった。

ナマエは、珊瑚礁を巡る旅をしていた。いや、ナマエはキングドラと出会ってから珊瑚礁を巡る旅をはじめた、と言った方が正しいかもしれない。

キングドラがナマエと出会った時、彼はまだ小さく幼いタッツーだった。
彼は、ナマエと出会う以前の自身になにが起こったのかを正確に把握してはいなかった。ただ、ある日突然故郷の珊瑚礁にたくさんの人間がやって来て捕らえられ、気付いた時には街の路地裏に捨てられていたのだ。

そこに現れたのがナマエだった。
キングドラはだんだん深くなってゆく海を泳ぎながら、細長く伸びた吻からいくつかの気泡を吐き出して、彼女の事を考える。思い返せば、自分は本当に手のかかるタッツーだったと思う。
幼いタッツーは、ただ故郷の海を恋しがって泣き続けた。彼女の手持ちにいた他のポケモンたちが思わず疎むような視線を向けてしまう程延々とむずかる彼を、ナマエだけは見捨てなかった。
タッツーをボールに入れた彼女は、南に向かって旅をはじめた。旅が始まってからもぐずぐずと嘆き続けてバトルでも役に立たない彼を根気強く励ましながら、ナマエはただ南を目指した。

そして目的の場所に着いた時、彼女の旅の目的をタッツーはようやく知ることになった。目の前には、深いマリンブルーの海と、色鮮やかな珊瑚礁が広がっていた。

「ここはキミのふるさとかな?」

珊瑚の間を飛び回るように泳いでいたタッツーにやんわりと質問を投げ掛けたナマエの優しい笑顔を、彼は今でもよく覚えている。タッツーはしばし迷ってから首を横に振った。記憶の中の海とは、なにかが少し違う気がした。

そうしてそれから、ナマエと彼の旅が始まったのだ。
タッツーはやがてシードラになり、キングドラに進化した。泣き虫だったタッツーはいなくなった。仲間とも打ち解けた。あの時のことは、笑い話のように語られる。その度にキングドラは照れ隠しに不機嫌そうな顔をしながら、かつてタッツーだった自分を抱き上げてくれたナマエの腕の優しさを思い出すのだ。

タッツーは、暖かい珊瑚礁に生息しているのだとナマエは言っていた。
だから彼女とキングドラは、今も世界中の海を巡って旅をしている。今まで数えきれないくらいたくさんの海を泳いできた。色とりどりの珊瑚礁は常に美しい姿でキングドラを迎えてくれた。

だが彼は、それを眼下に眺めながら沖へと向かう。
昔はケイコウオやサニーゴと追いかけっこをするのが楽しかった。けれど、キングドラになった今、彼は本能のままに珊瑚礁を通り過ぎ、沖合の暗く深い海底を目指さずにはいられないのだ。

きらめく海面を遥か頭上に眺めながら、キングドラは海の底を緩やかに流れる海流に揺られて考える。果たして、この海は自分の故郷だろうか。
考えても答えは出なかった。たくさんの綺麗な珊瑚礁も、深い海底から見上げる光の帯も、彼女と出会ってからの全てはきらきらと輝いていて、キングドラにとってはじめて見る景色だったのだ。

海底をゆっくりと流れる海流は、不思議とナマエの腕の中を思い出させる。ターコイズブルーの海面を見上げながらキングドラは、本当に久しぶりに涙を流した。悲しくはなかった。緋色の両目から一粒ずつ零れた涙は、すぐに海と混じり合ってひとつになる。

帰ろう。
キングドラは優美な曲線を描く体を僅かにくねらせてゆっくりと泳ぎはじめた。記憶の奥に微かに残る極彩色の海は、きっともうどこにもない。もしもその海に辿り着けたとしても、彼はやはり暗い海底を目指すだろう。

キングドラは光と闇の入り混じる透明な水の中を力強く進んでゆく。
ナマエの待つ浜辺に、一秒でも早く戻りたかった。そして彼女に、もう故郷を探す必要はないことを伝えよう。ようやく気付いた。帰る場所なら、もうずっと前からすぐそこにあったのだ。




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