昼過ぎから降り出した雨は、放課後を前にして無事に止んだ。まだいくらか雲は残るものの、抜けるような青さの空と高い日差しが、あちこちにできた水溜まりをきらきらと輝かせている。校内に残る湿った空気を押し出すように吹いた風は、肌に心地好かった。
ぬかるんだグラウンドに向かう野球部やサッカー部の面々に労うような視線を向けた東峰は、第二体育館に向かうべくクラブ棟の階段を下る。雨上がりの空気をすんと吸い込むと、鼻腔の奥を濡れた空気がくすぐった。今日は傘を持って来ていなかったから、帰るまでに止んでラッキーだったな。そんな即物的なことを考えているうちに、金属でできた階段を踏んでいた軽快な足音が、濡れた地面を踏む鈍いものに変わる。いくつもある水溜まりを丁寧に避けながら目と鼻の先にある第二体育館に向かっていた東峰は、体育館の前に見慣れた背中を見付けて、ふとその足を止めた。
ぐしゃ、と湿った音が鈍く響いたが、名前はそれに気付かないまま、その背中を丸めて足元をじっと見詰めていた。釣られるように視線を彼女の足元に移した東峰は、そこに大きな水溜まりが出来ていることに気付いた。まだ誰にも踏み荒らされていない水溜まりは、澄んだ水を湛えて静まり返っている。彼女はその鏡のような水面を、ただただ凝視していた。
校舎のどこからか、吹奏楽部が金管楽器を鳴らす間延びした音が聞こえてくる。すぐそこにあるクラブ棟からは部活前のエネルギーを発散させるように騒がしい談笑が漏れだしている。いつもと変わらず流れている放課後の空気の中で、丸められた名前の背中だけが時を止めていた。なんの変哲もない、自分がつい先程かわして歩いたものと全く同じただの水溜まりにしか見えないそれを、しかし彼女は真剣に眺め続ける。
自分には想像もできないような娯楽がそこにあるのだろうか。そう思った東峰は、呼び慣れた彼女の名前をそっと口にした。
「名前」
東峰の声に反応した名前の時間が流れ出す。
丸めていた背中をすっと伸ばして、彼女はこちらを振り向いた。そして東峰を認めて、にこりと鮮やかに笑う。右手をひらひらと振って、自分に手招きをした。
「旭くん旭くん、水溜まりの中に宇宙があるんだよ!」
東峰の名前を急かすように二度呼んだ名前は、そのままくるりと体を反転させて、再び水溜まりに向き直る。
水溜まりの中に、宇宙? 全く意味がわからなかった。東峰は疑問を覚えつつも、呼ばれたままに彼女の方に歩み寄る。小さな背中の隣に立って、同じように背中を丸めて水溜まりを覗き込んだ。
「ね? すごいでしょ!?」
そこには、確かに名前の言う通り、青い宇宙が広がっていた。
もちろん、水溜まりの水面に空が映っているだけだということに、東峰もすぐに気付いた。だが、それを口にするのが野暮なことだと思えるくらい、水溜まりの中の宇宙は美しかった。もしも東峰に知識があれば、それを『まるでイータカリーナ星雲のよう』とでも形容したかもしれない。抜けるような青さの空は、暗い水溜まりに映り込んで群青色の宇宙にその姿を変える。まだいくらも残る雲の切れ間で輝く太陽が薄い雲を通してその光を拡散させる様子は、水溜まりの中で、恒星の光を受けてゆらゆらと輝く星雲になる。
厚さにして1センチにも満たない水溜まりの奥に、はるか7500光年先の宇宙が広がっていた。東峰は青く渦巻く星雲を見詰める名前を、ちらりと見遣る。水溜まりの中に宇宙を見るその瞳で世界を眺めたら、世界はどんなふうに見えるだろう。今とはぜんぜん違う景色が広がっているのだろうか。
東峰の視線に気付いた名前の瞳がくりっと動いて、東峰に向けられる。吸い込まれそうな程深く綺麗な黒が、きらきらと輝いていた。真っ直ぐ見詰められた東峰の鼓動が、少しだけ早くなる。
「このまま宇宙に飛び込んでいけたら、きっと気持ちいいと思わない?」
そんなのは無理に決まっている、と思う頭の片隅に、もしかして彼女なら或いは、という有り得ない仮定が持ち上がった。名前ならば、このまま水溜まりの中の宇宙にふっと吸い込まれてしまうんじゃないか。そんな漠然とした不安が、東峰の脳を支配する。自分にとっては邪魔でしかない学校の中に出来たたくさんの水溜まりが、名前にとっては全てぽっかりと口を開けた宇宙への入口なのだ。
東峰は、隣に佇む名前の手をそっと握った。彼女の見ている世界は美しい。だがその美しい世界に彼女を奪われたくなかった。東峰は渦巻く宇宙の瞳を見ながら「行かないでくれよ」と言って、それから情けなさをごまかすようにちょっと笑った。
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