「じゃあ、テーマは、学校にいるお化けね」
苗字さんはそう言いながら、手にしていた大学ノートにさらさらと文字を書き込んでゆく。彼女がノートに視線を注いでいるうちに、お化け係の女の子のひとりが嬉々として喋り出す。
「いいねー学校の怪談! うちの学校にもいくつか噂があってね、校舎の北側の壁がさあ、」
俺の顔が青くなったのと、苗字さんが「ちょちょちょっとゆみ子! やめて! 怖い話やめて!」と叫んだのがほぼ同時。本当にお化けが苦手だったんだなあ、と思った俺の視線の先で、彼女はクラスメイトに笑われて少しだけ頬を赤く染めていた。
「怖いもんは怖いの!」
苗字さんはこうやってみんなにからかわれながら、しかししっかりとクラスの中心で話をまとめてゆく。じゃこれは衣装に頼もう。こっちは設営と連携して作っていこう。そんなことをみんなと確認しながら、ノートに書き込む。
俺はせわしなく動く彼女の右手をぼんやりと眺めながら、文化祭実行委員を決めたホームルームの時のことを思い出していた。男女から一人ずつ、部活や委員会の忙しくない人の中から、じゃんけんで決めていたような気がする。俺は部活を理由に最初からパスしてしまっていたからあまり定かではないけれど、
……たぶん苗字さんは、この役職に立候補したわけではないのだ。しかもクラスの多数決で決まった出し物は、苦手なはずのお化け屋敷。
「じゃあ、お化けチームはこんな感じで!」
苗字さんは大体の方向性をまとめ終えると、ノートを閉じて満足そうに頷いた。そして、「一か月間、よろしく」と言ってぺこりと頭を下げる。お化けチームの面々が口々に「よろしくね」とか「がんばろうなー」とか言うのを聞きながら、自分も何か言おうかなあと考えて、でも自分には『よろしく』も『がんばろう』も面と向かって言う資格なんかないような気がして、がんばれ、と心の中で思いながら薄く笑みだけ浮かべておくことにした。
みんなと一通り言葉を交わし終えた苗字さんは、ぱっと踵を返して今度は設営係の一団がいる方へ向かう。忙しそうなその背中を見詰めていた俺の視線の先で、ふと、彼女は歩みを止めた。そして、設営係の方へ向けていた爪先をゆっくりとこちらに向け直す。苗字さんの視線はそのまままっすぐに俺の方に向かってきた。騒がしい教室内で、俺と彼女の視線がぶつかる。
俺は、彼女のこの行動の理由がわからなくて困惑した。さっき、俺だけなにも言わなかったことに気付いていたのだろうか。それで彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか。ここでこんなことを心配するくらいなら、あの時になにか適当に声をかけていればよかったのだと、思う。俺はいつもこうだ。あとでこうなることがぼんやり分かっているのに、それでも言えないことがたくさんある。
絶望的な気持ちで見つめていた先の苗字さんは、俺を見ながら、その唇をなにか言うように動かした。小さな声だったのか、はたまたそもそも声を出さなかったのかは定かではないが、いつも明瞭なはずの彼女の声が、この時だけは俺に届かなかった。苗字さんはなにかを口にした後、ぱっちりとした印象の目元をふっと緩めて笑う。そして、右手で小さくガッツポーズを作ると、そのまま再び俺に背中を向けて、今度こそ本当に設営係の方へ行ってしまった。
俺は呆然とその背中を見送った。おそらく彼女は怒ったり、悲しんだり、呆れたりしていないのだろうということは、かろうじてわかった。けれどそれ以外のことは何もわからない。
設営係のメンバーと言葉を交わす彼女の横顔を見詰めながら、でも俺は、お化け屋敷をやることが少しだけ嫌ではなくなってきているような気がしていた。
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