あの日以来、苗字さんの周りには常に誰かがいて、お化け屋敷のことを相談しているようだった。彼女はその度に大学ノートを広げ、うんうんと頷きながらそれをメモする。ちらりと見えた表紙には、黒の油性マジックで『文化祭 2年3組 お化け屋敷』と簡潔に書かれていた。
「こうやったら教室真っ暗にできるんじゃないかと思うんだよね」
設営チームの代表らしい男子生徒の提案をメモしながら、苗字さんは「うー真っ暗かあ、怖そう」と小さく呟く。その語尾が震えていることに気付いた彼は、「お前そんなんで大丈夫なのかよ」と言って呆れたように小さく笑う。苗字さんはそんな彼に少し苦い笑みを返してから、「まかせて、善処する」と言った。
俺はそんな彼女をぼうっと視線で追っていたのだが、不意に、俺と彼女の間にいくつもの影が現れた。
「東峰ー、お化けのことなんだけど、」
そう言いながらこちらに近付いて来たのは、俺と同じくお化け係になっている生徒たちだった。
俺は「なに?」と言って彼らに視線を移す。先日、苗字さんに烏野高校の怪談を語ろうとしてたしなめられていた女の子が、ルーズリーフをひらひらさせながら、言った。
「誰がどんなのやるかちゃんと決めようと思ってさ」
机の上に置かれたルーズリーフには、お化けや仕掛けの名前と、その横に担当する人の名前が書かれていた。俺は「あー、」と間延びした声を出して時間を稼ぎながら、差し出された紙に目を通してゆく。見知ったお化けの名前だけでなく、水滴や生首、こんにゃくといったお客さんを脅かす仕掛けもお化け係の担当らしい。あ、こういうのならまだなんとかやれるかもしれない。比較的怖くなさそうな水滴係を申し出ようと、じゃあ、と言いかけた瞬間、お化けチームのリーダーらしき女の子が口を開いた。
「まあでも、東峰はお化けだよねー」
にんまりと笑うその顔に、俺の本能が警鐘を鳴らす。まずい、と思いながらも俺の口から漏れ出たのは「え、」という短い言葉だけだった。え、じゃないぞ俺、ちゃんと嫌だって言わないと! お化け屋敷をやるのはなんとなく嫌じゃなくなったような気がしたけれど、それと自分がお化けをやることは、別だ。真っ暗な中、お客さんを脅かすために待機するなんてもうすでに絶対怖い。
……でも、ここでみんなの期待を裏切って水滴係がいいなんて言ったらどう思われるだろう。自分の気持ちとみんなの期待をうまく天秤にかけられずに、俺は黙り込んでしまう。俺の無言をどう捉えたのか、彼女は「いいよね?」と言って、手にしていたシャーペンの頭をノックする。その他のお化けチームの面々も「そのガタイと顔、使わない手はないもんな〜」「そうそ」「東峰くんの衣装どうしよっか?」と俺の肯定を確信しているような言葉を口々に紡ぐ。
出来上がってゆく空気をひしひしと感じながら、諦め半分で彼らを見渡した瞬間、
「どしたの? 東峰」
彼らの後ろから、自分の名前を呼ぶ苗字さんの声が聞こえてきた。ぱっと割れた人垣の向こうに現れた彼女は、その強気そうな瞳をぱっちり開いて、俺の方を見ていた。俺の頭の中に、先日彼女が俺に向けた意味深な笑みと、小さなガッツポーズが蘇る。あれが何を意味していたのかはわからないけれど、なんとなく、彼女ならばこの状況をなんとかしてくれるのではないかと、思ってしまった。俺は思わず縋るように彼女を見つめてしまう。すると、彼女は何かを察してくれたらしい。その双眸が、僅かに細くなった。
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