苗字さんが現れたことで、みんなの意識が彼女の方に流れた。自分に向いていた危なげな視線が無くなったことに安堵した俺は、とりあえず小さく息をつく。
「今のところこうなんだけど」「こんなアイディアどうかな?」「衣装の人にこういうのって頼める?」時折交じる怖い単語に怯えるような表情を浮かべながらも、苗字さんはそんな報告と質問の嵐をうまくさばいて必要事項をノートにメモしてゆく。その手際に感心する俺の視線の先で、苗字さんはお化けチームのリーダーが持っていたルーズリーフを指差して「ゆみ子、それは?」と彼女に質問をした。すると彼女は待ってましたというような笑みを浮かべて、「忙しい名前の代わりに、お化けチームの仕事の割り振りをメモしようと思ってさ」と言って、それを苗字さんに手渡した。
「へえ! 助かる、ありがと!」
笑みを浮かべながらそれを受け取った苗字さんは、ざっと目を通しながら「これで全員?」と尋ねる。
「あ、まだ東峰の名前書いてないけど。東峰がお化けで、全員だよ」
それを聞いた苗字さんの目がぎょっと見開かれた。俺がお化けが苦手なことを知っている彼女は、ぱっとこちらを向いて、本当? と目で訴えてくる。出来ることならお化け役をやりたくない俺は、即座に首を横に振ってそれに答えた。
無言のコミュニケーションから俺の状況を正確に測ってくれたらしい、苗字さんは俺とみんなの間に体を割り込ませて、「東峰はお化けやらないよ」と言ってくれた。目の前に現れた小さな背中は、情けない俺とは違って、とても頼もしい。俺は無意識に背中が丸くなるのを感じながら、しかし、なにもできずに小さくなって彼女の背中に隠れる。
「え? そうなの?」と首を傾げるみんなに、苗字さんは「そう」と頷いてから、首をひねってこちらを向く。それから「ね?」と同意を求めるように俺に向かって小首を傾げた。それに合わせて彼女の髪の毛がさらっとか細い音をたてて揺れたのを場違いに不思議な気持ちで見つめながら、俺は大きく一度、頷いた。
「ほらね。東峰は……水滴係でもやる?」
微かに冗談っぽく笑ってそう言った苗字さんの言葉には、きっと深い意味はなかったのだと思う。「あれ、図星?」と笑ってから俺から視線を外し、ルーズリーフの内容を大学ノートに書き写してゆく。
これは彼女にとって、このまま記憶の彼方に消えてしまう、何でもない言葉だったに違いない。でも俺は、自分がやろうかなと思っていた仕事を彼女が薦めてくれたことが、ただ嬉しかった。
この気持ちをうまく彼女に伝えることばを見付けられないまま、俺は休みなく動き続ける彼女の右手を見つめる。細いペン先で綴られた東峰の二文字が、彼女の独特の癖字でもってそのノートに刻まれた。はきはきとした彼女らしい、明瞭な筆跡だった。
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