朝練を終えて教室に上がり、席に着く。いつもと同じその動作を終えた俺に、「東峰おはよ」という明瞭な声がかけられた。いつもと違う出来事に僅かな動揺を感じつつ、しかしその声がここ最近で急速に聞き慣れた苗字さんのものであることに安心した俺は、彼女に「おはよう」とあたりさわりなく挨拶を返す。
彼女はブレザーのポケットに右手を入れながら「あのさあ、」と言って、机の間を縫ってこちらに近付いてくる。彼女の肩の向こうに、こちらを見つめる男子生徒の姿を見付けた俺は、そういえば彼が設営係のリーダーだったことを思い出す。彼の机の上には、広げられたままの大学ノート。苗字さんはもしかして、彼との話を中断してこちらにやって来ているのだろうか。お化け屋敷の設営よりも大切な話があるのかとやや身構えた俺に、苗字さんは笑顔でこう言った。

「よかったら、メアド教えてくれない?」

ポケットから取り出された右手には、携帯電話。教室に残ってる人の中に東峰の連絡先知ってる子がいなくて、という彼女の言葉が耳の奥に蘇ってくる。昨日感じた罪悪感と羞恥心が再び胸いっぱいに満ちて、俺は「あ、うん」と言いながら思わず視線を下に逸らしてしまった。先日からひしひしと感じる苗字さんの優しさや気遣いの細やかさはとてもありがたい。けれど彼女と言葉を交わすたび、どうしてもそれに甘えてしまう自分の情けなさが浮き彫りになる。本当にだめだな、俺。なんて思いながら溜息をついた、その時。

「あ……もしかして、嫌だった?」

俺の溜息をどう解釈したのか、苗字さんがそんなことを口にした。その少ししゅんとした声色が、俺の心臓をぎゅっと掴む。
俺は何度目になるかわからない後悔をしながら、「ごめん!ちがう、その……嫌じゃないから!」と言ってばっと顔を上げる。俺の言葉の勢いに驚いたのか、見上げた先の苗字さんは両目を大きく見開いて俺のことを見下ろしていた。ポケットに携帯電話を仕舞おうとしていた手を、ゆっくりと元に戻す。そして彼女は、「よかった」と言ってその双眸を和らげた。

普段の俺ならば、ここでもう一度謝罪をひとつかふたつ口走ってしまうのだけれど、この時ばかりは、それを口にすることが出来なかった。苗字さんの笑顔がいつもの、なんというか強気そうな、にっと笑うような笑顔じゃなくて、もっと柔らかい感じの、なんだか見ていて安心するような笑顔だったからかもしれない。
でもそれは残念ながら一瞬のことで。彼女はすぐにいつもの強気な瞳に戻ると、携帯電話を開いて赤外線の準備をし始めた。

「東峰はまだガラケー?」

俺は彼女の言葉に頷きながら携帯電話を取り出して、連絡先を交換する。電話帳に登録された苗字名前の文字は、なんだか眩しかった。




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