手袋を外すと、氷の息吹のように鋭い北風が指先をかすめてゆく。ナマエはそれに顔をしかめながら、ポケットから鍵を取り出し、シリンダーに差し込んだ。
重い金属の錠がはずれるまでのわずかな時間が、ただただ惜しい。マフラーに顔をうずめても、全身の毛穴を塞ぐように身を縮めても、自然の前に人間は無力だ。ナマエは為すすべなく寒さに身を震わせながら、鍵を回す。がちゃり。よし、科学の力に守られたあたたかい部屋まで、あと少し。鍵穴から鍵を抜き出して、それを右手に保持したまま器用にドアノブを掴み、回そうとした矢先。
バチッ、という派手な音と共に、冷え切った右指の先に鋭い痛みが走った。
「っ!」
彼女は声をあげることも出来ずに、ただ反射に従って右手を引っ込めることしか出来なかった。静電気だ、ということを理性的に理解するより先に、彼女の唇から白い息と不満の声が漏れる。
「、、ちょっと、もう……」
遅れてやって来た憤りのままに、言葉にもならない感情を吐き出した。しかし、駄々っ子の真似事をしたところで、誰かがこの扉を開けてくれるわけではない。
ナマエは寒さに肩をすぼめたまま、観念したように小さくため息をつく。そして、もう一度右手をドアノブに近付けた。きんきんに冷えたそれを、人差指の先でちょんちょん、と二回、慎重に触ってみる。……よかった、もう大丈夫みたい。ほっと胸を撫で下ろしたナマエは、そのまま勢いよくドアノブを掴み、今度こそ本当にドアを開けた。
玄関に滑り込んだ彼女を出迎えたのは、期待の通りにあたたかく保たれた自宅の空気。
それから、玄関先に鎮座していた、もうすっかり見慣れてしまった黄色いポケモンの姿だった。
街中でも比較的よく見かけるバチュルが、そこにいた。
バチュルは小さな体でこっそり家の中に入り込んで、コンセントから電気を拝借してゆくことがある。人によってはバチュルを害獣とみなし、家屋に侵入されないための工夫を凝らしていることも少なくない。
しかし、ナマエはこのバチュルというポケモンを案外気に入っていた。大きな青い眼はよく見ると透き通っていて綺麗だし、鮮やかなくちなし色の体毛の独特の触り心地も悪くない。
そして、ナマエにとって重要なのは、このポケモンが電気を吸って生きているということだった。彼が吸うのは、コンセントの電気だけではない。他のポケモンの貯めている電気や、時には人間に帯電している静電気も、綺麗に吸い取ってくれるのだ。
帯電体質なナマエは、バチュルのこの性質を重宝していた。バチュルの方も、どうやら彼女の貯える静電気を好んでいるらしく、もうずっとこの家に居着いている。
虫ポケモンの苦手な友人は、ナマエとこのバチュルの関係をあまり快く思っていないようだが、しかし、彼らの関係は非常に良好だった。
大きな青い眼が彼女を捉えた瞬間、ごわごわとした毛におおわれたその脚がぴくりと動く。
バチュルはその小さい身体からは想像もできない脚力でぴょんと跳びあがると、彼女の襟元に張り付いた。そして、彼女がそれに反応するより早く、マフラーの下へと潜ってゆく。
「あ、ちょ、待って、マフラー外すから」
しっかりと巻き付けた毛糸のマフラーを外そうともたつくナマエを尻目に、バチュルはマフラーの下をもぞもぞと進んでゆく。そして、首筋に取りついたバチュルは一度小さく鳴いてから、そのうなじに口を寄せた。
その瞬間、ナマエの身体中に、甘い電流にも似た刺激が走った。
その刺激に反応するように、彼女の動悸が早まってゆく。反射的に浅くなる呼吸、徐々に力の抜けてゆく四肢。バランスを失いそうになったナマエは、慌てて右手を壁につくことで、転倒を免れる。
しかしその間も、全身を電流が駆けてゆくような刺激は止まらない。止まらないどころか、次第に感覚は研ぎ澄まされ、快感にも似た刺激は大きくなってゆく。
それは、バチュルがナマエの身体から静電気を吸う際に発生する、生理現象の一環だった。
バチュルに吸電される度に何度も何度も感じてきたそれ。薄い皮膚の下を電子がぞろぞろと流れてゆく、むずかゆいような、しかしどこか気持ちいいような、何とも言えない感覚。
マフラーの下をうごめくごわごわとした毛の感触と、首元に押し付けられた堅い上顎。ナマエが痛みを感じないように優しく、しかし、静電気を全て吸い取ることが出来るように強く、深く。その絶妙な力加減と、身体の中を電子が移動してゆくむずかゆいような感覚が、彼女の脳髄をぴりぴりと刺激した。ナマエの視界はとろけるように霞み、その眦には涙が滲む。
かすかに開いたままの唇から、「ね、ほんと、待って、、」という嘆願の声が漏れ出たが、腹を空かせていたバチュルは彼女のため息まじりの嘆願など無視して、静電気をすすり続けた。
そんなバチュルをたしなめようと口を開いたナマエ。しかし、背筋を駆け上がってゆく甘い刺激に阻まれて、それは叶わなかった。ただ漏れるに任せて流れ出てくる吐息だけが、彼女の家の玄関に大きく響く。
まるで夢でも見ているかのように曖昧になってゆく意識。電子が流れるに従って必然的に上がってゆく体温。
独特のむずかゆさは、次第に大きくなっていき、自分の身体の境界がぼやけていってしまうような感覚を彼女に生じさせた。やわらかな光を落とす玄関の電球が、足元に並ぶ色とりどりの靴が、淡い風合いの壁紙が、溶け合ってひとつになる。
彼に抵抗することを諦めたナマエは、靴を履いたまま、上がりがまちに崩れるように座り込んだ。
何度経験しても慣れることの無い感覚が、脳の奥深い部分をじりじりと甘く焦がしてゆく。たまらず固く瞼を閉じれば、滲んでいた涙が彼女の睫毛をじとりと湿らせた。
それは、時間に直してしまえば、毎回ものの20秒にも満たない。バチュルが吸電をし、帯電体質のナマエはそれで静電気の被害を免れる。たったそれだけの因果関係しか持たない、ごく自然的な行為でしかない。
腹を満たし終えたバチュルは、親愛を込めて彼女の首筋を甘噛みする。そして、再びマフラーの下をもぞもぞと移動し、ぴょこんと床に飛び降りた。電気をたっぷり含んだせいか、くちなし色の体毛が互いに反発しあってとげとげしく逆立っている。
いつもよりも一回り大きく見えるバチュルを潤んだ視界で眺めながら、ナマエはまず、今日のそれが終わったことを曖昧な意識の中で理解した。ぞわりと粟立つような感覚で流れていた電流は、いつの間にか止まっていた。
肺の中に溜まっていた熱っぽい空気をゆっくりと吐き出してから、おずおずとマフラーを外す。玄関ホールの壁に背中をもたせかけたまま、まだあたたかいそれを裏返す。ちょうどバチュルが潜り込んでいたあたりの毛糸が焼け焦げて、くすんだ茶色に変色してしまっていた。
「……だから待ってって言ったのに」
乱れた呼吸を努めて落ち着けて、少しだけ恨みがましく言ってみた。彼女のその言葉の意味を理解しているのかしていないのか、バチュルは満足そうな声で一声鳴いて、深いオリエンタルブルーの瞳をきゅっと細めて無邪気に笑う。
そして彼は、はやくおいでよ、と言うように軽やかに跳ねながら、一足先に暖房の効いたリビングへと消えていった。
ナマエはその小さな背中をぼんやりと見つめながら、まだ熱を持っている首筋にそっと右手をあてがった。その熱は、静電気によって感じた痛みを慰めるように、右指をまどろませてゆく。
――まだまだ、冬は終わりそうにない。早く新しいマフラーを買いにいかないと。
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