「東峰がお化けやるってさ!」
男子の文化祭実行委員はそう言って、お化けチームのリーダーである女の子の方に手を振る。すると彼女は「え? ほんと? やったー!」と言いながら立ち上がり、仕事を放棄してこちらに駆け寄ってきた。にこにこと笑いながら「やっぱりねー、東峰はねー!」と言う彼女に、ぎこちなくはあったが笑みを返した瞬間、「ちょっと!」という苗字さんの声が響いた。いつもは耳に心地よいその声が、この時ばかりは少しだけ高く裏返っていた。
「そ、それ、どういうこと?」
しどろもどろになりながら机の間を縫ってこちらに駆け寄って来る苗字さん。彼女は焦りの浮き立った笑顔で俺たちの顔を見回しながら、説明を求めるように首をひねる。それに答えたのは、男子の実行委員。彼はにやりと笑って口を開いた。
「どうもこうもねーよ、苗字が東峰にお化けやらせようとしてた話したら、ころっと」
それを聞いた苗字さんの両目がぱっと見開かれた。「ちがうの」と言いかけた苗字さんに気付かなかった彼は、言葉の勢いのまま、椅子に座っている俺の背中をばしんと叩く。その力が思ったよりも強くて、俺は小さく呻いてしまった。それを聞いた彼と、お化けチームのリーダーが、けらけらと笑う。
そんな中、苗字さんだけは、「だいじょうぶ?」と俺の心配をしてくれた。思わず声が漏れてしまっただけで、痛みは大したことなかった。俺が頷くと彼女はその表情を一旦やわらげて、それからすぐに眉根にきゅっと皺を作る。同時に下がる眉尻。俺がお化けが苦手なことを告白した時と同じ、俺のことを心配する表情がそこに現れた。
「あ、東峰、ごめんね私、何も知らないで勝手なこと言ってたの。だから、私に気とか使わなくて、いいからさ」
だんだんと沈んでゆく声のトーン。彼女の眉間に寄せられた皺は、俺のことを心配しているのではなく、自分のしたことを後悔しているものだということに、俺は遅れて気付く。見上げた先の苗字さんは、すこし目を伏せてもう一度、「ごめん」と謝った。違う、そんな顔をさせたくて、俺はお化け役を申し出たんじゃない。
俺は意を決して、立ち上がる。教室ではいつも俺よりも上にあった彼女の顔を、初めて見下ろす。俺のそれとは違って細く柔らかい髪が俯いた彼女の表情を隠してしまっているのを眺めながら、口を開いた。
「別に気を使ってるとかじゃないよ」
俺のその言葉に、苗字さんがゆっくり顔を上げた。眦の持ち上がったはっきりした瞳が、僅かに揺らぎつつも真っ直ぐこちらに向かってくる。その視線に少したじろいでしまった俺は思わず右手を持ち上げて、掌を後頭部に当ててしまう。そして、「えーっと、なんて言うかさ、」と意味のない言葉を口にした。
そう、たぶん、これがよくないんだよな。俺は右手を下ろして、意志をかためるようにそれをぎゅっと握る。それから、こちらに向かってくる不安げな眼差しを今度はなるべくしっかり受け止めた。
「俺が、やりたいんだ」
視線の先の苗字さんは、眉間に刻んでいた皺をぎゅっと深めた。
彼女のそのどこか苦しそうな表情を見て初めて、もしかしたら俺の言葉で彼女に笑顔が戻ったりしないだろうか、なんて期待していた自分がいたことに気付く。でも、やっぱり、そんなにうまくはいかないか。だって俺だもんな。わきあがって来る情けない気持ちから逃れるように、俺の表情だけが微かな笑みを形作る。それを見た苗字さんは、その上がり気味の双眸を僅かに見開いた。そして、何かを言おうと血色のいい唇を開きかけた、その時、
ホームルームの終了を告げるチャイムが鳴った。途端に騒がしくなる教室が、後片付けの指示を求めて実行委員を口々に呼ぶ。
行きなよ。そう思いながらちょっとだけ微笑むと、苗字さんは俺の意思を察してくれたらしい、もの言いたげな瞳を残して、「名前ーこれどうしよう」と声を上げた女子生徒の方へぱたぱたと駆けて行った。
俺はその背中を見送ってから、机の上を片付けて、鞄を持って教室を出る。もしかしたら、本当に迷惑だったのかもしれない。そう思うと恐ろしくて、とてもじゃないけれど苗字さんのいる教室に残ることができなかった。重苦しい気持ち胸にがつかえてしまって溜息をつくこともできないまま、第二体育館に向かう。
「待って、東峰!」
そんな俺を呼び止める明瞭な声が、廊下に響いた。
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