声のした方を振り返る。廊下の向こうにいたのはやっぱり苗字さんだった。
彼女の顔を見た途端、ついさっきの感情が蘇る。迷惑だと思われたかもしれない。その恐怖に突き動かされるように、俺は思わず彼女から顔を背けて第二体育館へ向かって早足で歩きだしてしまった。

「あっ、ちょ!」

苗字さんのそんな声が聞こえたが、俺の足は止まらなかった。今、どんな顔で彼女に会えばいいかわからなかったのだ。明日に引き延ばしても余計に辛くなるだけだということは分かっている。それでも、逃げ出さないではいられなかった。

「東峰っ、」

そんな俺の手を、彼女の小さな手が掴まえた。くんっ、と右手を引っ張られ、俺の足が止まる。突然のことに真っ白になった俺の頭が状況を理解して騒ぎ出すより早く、苗字さんは俺の手を両手でつかんだまま、「ごめん、待って」と言った。廊下の真ん中で立ち止まる俺たちを、鞄を持った生徒たちが怪訝そうに避けてゆく。普段の俺ならば、その視線から逃れるようにこの場を去るか、背中を丸めるかしていたことだろう。けれど今は、苗字さんの必死そうな声が、俺を見つめる多くの視線をどこかにやってしまっていた。

「すぐ済むから、聞いて」

俺の手を握る彼女の手の力が、僅かに増す。呆然とする俺に、彼女は少し俯いたまま続けた。明瞭で明るい調子の声は、しかしどこかぴんと張り詰めていて、どうしようもなく俺の思考を阻む。

「お化け、無理してやらなくても、いいよ。私から言っとく。迷惑かけてごめん」

俺の手を握っていた彼女の手が離れてゆく。「それじゃ、また明日」と言ってくるりと踵を返した彼女の髪の毛がふわりと舞う。その間から見えた強気な瞳の奥に僅かに暗い色が見えた瞬間、彼女の言った「迷惑かけてごめん」という言葉が頭の中に蘇った。苗字さんに迷惑がられたのではないかと思って逃げ出してしまった自分と、迷惑かけてごめんと謝って去ってゆこうとする彼女。これはなんだか重要なことのような気がしたけれど、それについて深く考えている余裕はなかった。考えるより先に、体が動く。

俺はとぼとぼと歩いてゆく背中を追いかけて、ついさっきまで俺を捕まえていた手を、握った。それに驚いてこちらをぱっと振り返った苗字さんは、その大きな瞳をいっぱいに開いて俺のことを見上げる。思わず握り締めてしまった手は、思っていたよりも小さくて、柔らかかった。力の加減がよくわからない。俺は苗字さんが痛がってはいけないと思い、思わず手を離してしまった。右手の掌に残った彼女の感触に少しだけどぎまぎしながら「あのさ、」と彼女に話しかける。ぱちりと開かれた瞳を二度、しばたかせて、苗字さんは俺の言葉の続きを待った。

「俺はぜんぜん、迷惑じゃないよ」

本当はもっと、言いたいことがたくさんあった。本当はやりたくなかったお化け役をやってみようと思えたのは、苗字さんのおかげだったこと。苗字さんの役に立ちたいこと。笑っていてほしいこと。けれどそれらの気持ちはどうも、俺の中で大きくなりすぎていて、うまく噛み砕いて説明することはできそうになかった。
苗字さんは、俺の顔色を窺うようにおずおずと、「ほんと?」と小さく口にした。俺がそれに頷くと、彼女は今度は「ほんとにほんと?」と言ってぐっと一歩こちらに踏み出した。その勢いにやや押されながらも「ほんとにほんとです」と言うと、苗字さんは一呼吸おいてから「わかった!」と言って、大きく一度頷いた。

「変に勘ぐってごめん。もう気にしない。一緒にお化け屋敷がんばろ」

その顔に笑顔が戻ったことに安堵しつつその言葉に頷こうとした俺は、重要なことを思い出して「あ、でも、」と頭を垂れる。自分が教室を飛び出して、彼女の前から逃げ出そうとしてしまった理由。

「苗字さんが、迷惑じゃなかったらだけど……」

彼女の笑顔から視線を逸らしてそういうと、彼女は一瞬きょとんとその目をまん丸にしてから、「ぜんぜん、迷惑なわけないじゃん」と言って、笑う。

「東峰がお化けやってくれて、嬉しい」

「よろしく」と言ってこちらにぐっと握った拳を差し出す苗字さん。彼女の右手に握り拳を軽くぶつけてから、俺は最初のときに言えなかった言葉をようやく口にすることが出来た。

「おう、がんばろうな」




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