長かった四時間目が終わり、待ちわびたお昼の時間がやって来る。俺は鞄から弁当と財布を取り出して、大地たちのいる4組に向かおうと席を立ったのだが。

「あ、東峰!」

苗字さんに名前を呼ばれ、足を止めた。
彼女は机の間を縫ってこちらに近付いてくると、「ちょっと、測らせて」と言って右手に持っていたメジャーを示してみせた。そういえばここ数日、お化け役で衣装の必要な人たちが時間を見付けては彼女に採寸されていたような気がする。俺は「おう」と言ってから、弁当と財布をいったん机の上に置いた。
「じゃ、学ランだけ脱いでもらっていい?」という彼女の言葉に従って、前を止めずに着ていた学ランを脱いで、椅子の背中にかける。メジャーを引き出すかちかちという軽快な音と共に俺の背後に回った彼女は、そのまま俺の両肩にぐっと手を押し当てる。どうやら、肩幅を測っているらしい。背中を滑る彼女の手が、すこしくすぐったい。思わず湧き上ってきそうになる邪念を追い払いながらじっとしていると、彼女は見事な手つきで採寸を進めてゆく。
腕の長さを測り終えた彼女はそれをノートに書きつけてから、「ちょっとごめんね」と言って、あろうことか俺の腰に、きゅっと両手を回した。俺の背中に彼女の上半身が触れる。それは一瞬の出来事で、すぐに腰に回された苗字さんの両腕と上半身は離れてゆく。けれど背中に残った曖昧な感触と、彼女の体が近付いた一瞬にふわりと鼻腔をくすぐったかすかに甘い匂いが、どうしても消えない。ただ腰回りを測っただけだということは分かる、けれど、頭でそれをわかっていても顔に熱が集まってゆくのは止められそうになかった。

「終わったよ」

苗字さんはこともなげにそう言って、メジャーをしゃっとしまう。俺は彼女に背を向けたままなるべく平静を装って「ありがとな」と礼を述べてから、机に置いていた弁当と財布を手にする。そしてそのままそそくさと教室の扉に向かって歩いた。苗字さんに赤くなっている顔を見られたくなかったのだ。彼女のことだから、たぶん嫌な顔をしたり、からかったりはしないと思うけれど、なんかもう、いま苗字さんの顔を見れる気がしなかった。下を向いて、背中を丸めて、足早に進む。
あと少しで廊下、という所で、苗字さんの声が俺を追いかけてきた。

「あ、学ラン忘れてるよー?」

学ラン! 忘れてた、俺のばか!
このまま彼女の善意を無視していくわけにもいかず、俺は背中を丸めたまま体を反転させて自分の席に戻り、学ランを椅子から取った。苗字さんはお化け屋敷用の大学ノートを抱えて、俯いたまま移動する俺を不思議そうに見つめていたが、ふいに、その小柄な体をひょいっと動かして、俺の顔を下から覗き込むように見上げてきた。「どうかした?」という言葉とともに目の前に現れた強気な印象の大きな瞳に、赤くなっている俺が映り込む。突然のことにかたまってしまった俺の鼻腔に、さっきの甘いかおりが、今度はいくぶんかはっきりと、流れ込んできた。これから俺は、どうすればいいんだろう。お昼時の教室の喧騒が、不自然なほど遠い。心臓が大きく一度跳ねた、その瞬間、

「旭ー、まだかー」

そう俺を呼ぶスガの声が、聞こえてきた。
俺が声のした方を振り返ると同時に、スガは「あ、あれなんか……あれ? ごめん?」と言って小首をかしげていたけれど、今の俺にはスガが神様かなにかに見えた。
スガが俺を呼びに来たことを理解したらしい苗字さんはぱっと身を引いて、「お昼、いってらっしゃい」と言って少しだけ笑ってから、くるっと踵を返して、すでにお昼を広げている友人の方へ戻ってゆく。俺は苗字さんが笑っていたことに安堵しながら弁当と財布、それから学ランを抱えてスガの方に歩み寄る。「スガあ、助かったよ」と礼を述べると、スガは無表情に近い顔で俺を見て、「ま、旭だもんな」と小さく言った。

スガの言いたいことは、なんとなく分かった。それでも、今の俺は苗字さんに悪く思われないようにするだけで精一杯なのだ。




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