正門前の坂を早足で下りる。そんな俺の背中に、小さな衝撃が走った。どん、とくぐもった音が体内を反響して俺の鼓膜を揺らす。その衝撃と驚きから、思わず前に倒れこみそうになってしまったのをなんとか立て直した俺は、「待ってよ」という明瞭な声を聞いて、自分の心臓が大きく鼓動したのを感じた。

苗字さんだ。彼女が、どうしていいかわからなくてその目の前から逃げ出してきたはずの女の子が、自分のすぐ後ろに、いる。その事実だけで俺の頭はまたいっぱいになってしまって、思考を放棄する。にもかかわらず、ぶつかった時の姿勢のまま俺の背中に彼女の手が置かれていることだけはしっかりと意識してしまうのだから、俺の脳はたちが悪い。途端に熱を帯び始める背中。俺は声にならない悲鳴を上げながら苗字さんから充分な距離をとり、一度深呼吸をしてから、おずおずと後ろを振り返った。
民家と畑に囲まれた薄暗い路地には、俺の心臓がはち切れんばかりに鼓動する音と、苗字さんの荒い息遣いだけが微かに響いている。彼女はどうやら、俺を走って追ってきてくれたらしい。まただ、と俺は思った。あの時と同じで、逃げ出してしまった俺を彼女は追いかけてきてくれた。
どうして、と思う俺の視線の先で、苗字さんは胸を大きく上下させながら「東峰?」と俺を呼んで、僅かに首を傾げる。首を傾げたいのは俺の方だった。どうして彼女は、あの時も、今も、こうして俺なんかを追ってくるんだろう。民家から漏れてくる薄明かりが、彼女の顔をぼんやりと照らす。

「どうしたの、なんで先に行っちゃうの?」

彼女はそう言って、眉間に皺を寄せたまま、眉尻を下げて困ったように笑った。そして、俺が自分の心臓のためにとったなけなしの距離をあっさりと詰めてしまう。俺の隣に並んだ彼女は、狼狽える俺をちらりと見上げて、「さ、行こう」と言った。
そのごく軽い口調が、俺の戸惑いを増加させる。行こう、って、どういうことだ? 苗字さんは笑っているけれど、スガとの会話を邪魔したことを不快に思っていないのだろうか? さっきから感じている劣等感も相まって、その疑問はうまく声にならなかった。ただ「え? えっと、」と言いながら、暗闇の中できらりと光る彼女の瞳を窺う。すると苗字さんは俺の言葉の続きを促すように「ん?」と言って少しだけ口角を持ち上げた。

「苗字さん、みんなはいいの……?」

彼女の瞳に促されてようやく口にすることができたその質問に、苗字さんは俺から視線を逸らして「あー、うん。いいの」と、彼女にしては煮え切らない調子で答えた。どこかぼんやりした声色が、薄闇の中に消えてゆく。少しだけ俯いた横顔を、彼女の髪がさっと隠した。
彼女の珍しい一面に面くらって黙り込んでしまった俺をどう思ったのか、苗字さんは俺と彼女の間に満ちた不自然な間をごまかすように、小さく咳払いをした。つむじが少し揺れる。そしてやや低い声で「ていうか、」と言ってから、足元に落としていた視線を持ち上げる。

「東峰が行こうって言ったんじゃん」

わがままを言う小さなこどものように少しだけ唇を尖らせて、苗字さんはそう言った。いつもはぱちりと開いていて強気な印象を与える双眸が、今だけはじとりとすがめられてこちらへ向けられる。

俺は彼女に見つめられながら、ついさっき、スガと楽しそうに話す苗字さんを見ていた自分の口から滑り出てきた言葉を思い出していた。とにかくスガから彼女を引き離したくて、坂ノ下に行こう、というつもりで口にした「行こう」は、俺が逃げ出してしまったことによって別の捉え方をされたらしい。苗字さんはたぶん、俺の「行こう」を、坂ノ下に行こうではなく、俺について来い的な意味で捉えているのだろう。
いやいやいや俺にそんなこと言えるわけないだろ! とにかくそれは誤解だということを彼女に伝えて、きっとみんなが彼女を待っているだろうから苗字さんには坂ノ下に戻ってもらって、それからこんなめんどくさいことにしてしまった俺のことをできたら嫌わないでいてほしいことを最後にさりげなく添えて(いいんだろうか。逆にますます嫌われたりしないだろうか)。これから彼女に言うべきことを頭の中で整理しようと努めながら「えっとね苗字さん」と口走る。

しかし彼女は、そんな俺を遮って「だから、いいの」と言った。
それはまるでささやきのような、微かな声だった。けれど、いろんなことを弁解すべく慌てふためいていた俺の思考は、たったそれだけの言葉ですっと静まってしまう。いつだって必ず最後まで話を聞いてくれていた苗字さんが、わざと俺の言葉を遮った。彼女にする弁解を考えるよりも、その事実が俺の頭を強く支配する。彼女が俺の言葉を遮ったことに、なんだか重大な意味がある、ような。

「ほら、行こう」

けれど、そう言って彼女が微笑むと、もうだめなのだ。俺の頭は簡単に考えることを放棄してしまう。

俺は彼女の言葉に頷いた。
二人の帰路は、とても静かで、やっぱり俺はスガのようにはいかないのだと改めて実感させられる。けれど、横目で盗み見た苗字さんはごく静かにではあったが、確かに笑っていた。
もしかして、これでよかったのかもしれない。なんてポジティブな考えが浮かんできてしまって、俺はそれをほとんど反射的に打ち消そうとした。けれど、今まで見てきた苗字さんの言動は、思い返せば思い返すほど、これでいいんだよと俺の背中を押してくる。本当に、これでいいんだろうか。彼女が隣にいることを喜んで大丈夫だろうか。

「どしたの東峰、へんな顔」

そう言ってくすっと、ごく楽しそうに笑う彼女。その笑顔が、そうだったらいいな、という俺の考えをまた少し、肯定してくれた。




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