ナマエが玄関の扉を開けると、そこにはいつもとおんなじマサラタウンの風景が広がっていました。
からりと晴れあがった空、町を取り囲むように緑を茂らせる森。太陽のあたたかな光を受けて輝く樹上を、つがいのピジョンが高い声で鳴き交わしながら飛んでいきます。足元には、名前も知らない小さな白い花がいくつか咲いていて、マサラタウンを優しく撫ででゆく春の風にそよそよと揺れています。

ナマエはそんなマサラタウンの空気を、肺いっぱいに吸い込むと、力強く歩きはじめました。10歳になったばかりの少女の小さな足は、彼女にぴったりのスニーカーにおさまっています。かわいいけれど履き心地のよい逸品で、10歳の誕生日にお母さんが買ってくれました。そんなお気に入りの靴を履いて向かう先は、オーキド研究所です。
ナマエの肩には、少し大きなカバンがしっかりとかけられていました。そのカバンは、彼女が歩くのに合わせて彼女の腰にぶつかって、ぽん、ぽん、とリズミカルに揺れます。たっぷりと荷物が入ったカバンですから、それなりに重たいことでしょう。しかし、ナマエはそれをまるで彼女の心そのもののように本当に軽やかに揺らして歩いてゆきます。

それもそのはずです。
だってナマエは、今日からポケモントレーナーになるための旅に出るのですから。

ナマエのカバンにたっぷり詰まっているのは、その旅に必要な荷物たちでした。荷物が少なくなるようナマエなりに厳選はしたのですが、やっぱり女の子の旅には何かと物が入り用なようです。もし今日いっしょに旅に出る他の男の子たちと比べたなら、その荷物の多さはひときわ目立ったことでしょう。
しかし、実際に他の男の子と荷物の量を比べてみることはできませんでした。なぜなら、今、オーキド研究所に向かう一本道を歩いているのは、ナマエひとりだけだからです。では、どうしてナマエしかいないのかというと、それはこういうわけでした。つまり、男の子たちはみんなとても身軽なかっこうで朝一番に研究所に向かい、ポケモンを貰って、もう既に旅に出てしまっていたのです。

ナマエは、男の子たちよりも、少しのんびりしたところがありました。なにをするにもマイペースなのです。今日だって、ナマエだけは太陽がしっかりのぼってから家を出ました。オーキド研究所に着くまでの道のりも、いつにも増してゆっくりゆっくり歩いて行きます。
けれど、それには理由がありました。なぜなら、この見慣れた風景とも今日でしばらくお別れだからです。ナマエは立ち止まって心ゆくまで空を見上げ、風の音に耳を澄ませました。昨日までとおなじマサラタウンが、けれど今日は、いつもよりも愛しくて仕方がなかったのです。

ナマエは大好きな町の景色をしっかりと心に刻んでから、オーキド研究所にやってきました。ナマエは少女らしい笑みを浮かべて、しっかりと自己紹介をします。それから、パートナーになってくれるポケモンをください、と、はっきりとお願いをしました。
オーキド博士は、いつまでたっても現れない最後のひとりがどんな子なのかずっと心配しながら待っていたので、ナマエのしっかりとした態度にやや面食らってしまいました。もしもポケモンを受け取りに来たこどもにあまりにも大きな問題があった場合、博士はポケモンを与えることをやめる権限も持っています。オーキド博士は、ナマエを待つ間、頭の隅でそのことを考えていたのです。

しかし、それは博士のとりこし苦労で終わったようです。現れた女の子は、他のこどもよりものんびり屋でマイペースなだけでとても心の優しいこどもでしたし、そのことはオーキド博士にもしっかりと伝わりました。
オーキド博士はナマエを歓迎し、研究所の奥に招き入れます。古めかしい本の並ぶ本棚を抜けた先には、やや開けたスペースがありました。見るからに高そうな機械の並ぶ中、簡素なつくりの机が置かれており、その上には、ナマエが夢にまで見たモンスターボールがひとつ、ころんと転がっています。

ナマエは、自分の胸がどきんと高鳴るのを感じました。今すぐモンスターボールに向かって駆け出したい衝動にかられましたが、オーキド博士の話が終わるまでそれは我慢しなくてはいけません。そのかわりに、ナマエは目を皿のようにしてボールを見つめました。だって、あの中に、ポケモンが入っているのです。それも、自分の最初のポケモンが!
オーキド博士はナマエのきらきらした眼差しを見つめながら、これは初心者向けのポケモンで、ある程度人間にならしてあること、今日旅に出るこどもの数だけモンスターボールがあったが、すでに他のポケモンたちは別のこどもと旅に出てしまったこと、なので、今はもうこのポケモンしか残っていないことなどを、手短に説明します。
ナマエは博士の説明を聞きながらこくこくと頷くものの、ボールから目を離そうとはしません。よっぽどはやく自分のポケモンに会いたいのでしょう。そのことを察したオーキド博士は、もうひとつ彼女に伝えようと思っていた言葉を飲み込んで、ボールを差し出すことにしました。
一般的に、説明の最後には、しばしば非常に重要な話が持ってこられます。今回オーキド博士が飲み込んだ言葉もその御多分にもれず、まずまず重要な話といえる内容でした。しかし、博士はそれをあえて伝えないことを選んだのです。きらきらと輝く瞳と、マイペースで心優しい性格の持ち主であるナマエならきっと大丈夫だろうと確信したからです。

オーキド博士から受け取ったモンスターボールは、ナマエが思っていたよりも随分軽いものでした。この中に生きたポケモンが入っていることが不思議でたまりません。ナマエは自分のてのひらの上に乗ったモンスターボールをしげしげと眺めていましたが、それも一瞬のことでした。すぐにポケモンに会いたくなったナマエは、モンスターボールをひょいっと放りました。赤と白の鮮やかな軌跡を描きながら宙を舞ったボールは、すぐにぱっくりと割れて、中から眩い光を吐き出します。その光が生き物の輪郭をかたどった、と思った瞬間、銀色の光ははじけ、その中から彼女のポケモンが現れました。

ころり、と、それは研究所の床に転がっていました。
銀光の散った先にあったのは、身じろぎひとつしない、無愛想な、茶色の甲羅だったのです。

オーキド博士の顔が、やや渋く歪みます。博士が伝えることをやめた重要な話とは、まさにこのことでした。
あの甲羅は、ゼニガメという水タイプのポケモンです。本来ならば甲羅から水色の手足をはやし、アザレ色の愛くるしい瞳でパートナーを見上げてくれるはずなのですが……、このゼニガメは、まるでいじけてしまったように殻にこもって、パートナーになるはずのナマエのことは見向きもしないではありませんか。

それには、こんな理由がありました。
ゼニガメというポケモンは、他の初心者向けポケモン、すなわち、ヒトカゲやフシギダネと比べると、すばやさが低いという特徴があります。それが、どうにも他のこどもたちのお気に召さなかったようなのです。のろまなカメはいらない! とでも言うように、ヒトカゲとフシギダネばかりがパートナーに選ばれて、ゼニガメはひとりぼっちで研究所でお留守番。そんなことが、ここ最近の旅立ちのたびに何度も続いていました。
ゼニガメは、初心者向けに訓練されたポケモンです。パートナーに選ばれて旅をすることをずっとずっと夢見ていました。だから、こどもに選ばれないということは、初心者向けポケモンとしての彼の気持ちをすっかりずたずたにしてしまっていたのでしょう。ゼニガメは、もう傷付くのはいやだと言うかのように殻の中に隠れてしまって、出てくる気配は微塵も見せようとはしませんでした。

ナマエは皿のように大きくしていた目を、ぱちくり、としばたかせると、たっぷりと荷物の入ったカバンを軽やかに揺らして茶色の甲羅に歩み寄ります。
まるで無機物のように身じろぎひとつしない茶色の甲羅でしたが、近くで見ると、それはとても滑らかで、無機物ではありえないみずみずしい光沢がありました。それを見たナマエは、甲羅に向かってにこりと笑いかけました。この甲羅は私のポケモンで、確かに生きている。そのことが、それだけで、とても嬉しかったのです。
ナマエはゼニガメに向かってその小さな手を伸ばします。そして、右手で甲羅のふちをコンコン、とノックしました。その軽やかな音は研究所に高らかに響き渡りましたから、もちろん甲羅の中にいるゼニガメにもしっかりと届いたことでしょう。
そして、ナマエは甲羅にあいた穴の奥に向かって、こう声をかけました。

「遅くなってごめんね。私といっしょに旅にでよう?」

ゼニガメは、自分にかけられた声が、いつも研究所で聞いていたオーキド博士のものと違っていることにすぐに気が付きました。もっとみずみずしい、鈴を転がしたようなその声は、どうしようもなくゼニガメを惹きつけました。ポケモンとトレーナーというのは、そういうものなのかもしれません。傷付くくらいならもう二度と甲羅から首を出さないぞと思っていたゼニガメでしたが、あの愛らしい声の主の顔を、どうしても見たくなってしまったのです。
ゼニガメは手足を引っ込めたまま、おそるおそる顔を少しだけ甲羅から出してみました。真っ暗な甲羅の中からゆっくりと出てきた水色の頭、ぱっちりとしたアザレ色の瞳。ゼニガメと目が合ったナマエは、浮かべていた微笑みをきゅっと深くして笑いました。

「わたし、ナマエ。あなたは?」

甲羅から首だけ出したまま、ゼニガメは小さく一声鳴きました。なんだか間抜けに見えるこの風景は、今まで旅立っていった他のこどもたちと比べると、なんだか少しいびつな出会い方なのかもしれません。けれど、今ここにいるのはナマエとゼニガメだけなので、やっぱり他のこどもと並べて比較することはできませんでした。

ゼニガメの声を聞いたナマエは、大きく一度頷きました。
それを見たゼニガメは、もう一声、今度はさっきよりももっと大きな声で鳴きました。それに応えるように、ナマエはもう一度大きく頷き、こう言いました。

「よろしくね、ゼニガメ!」

ナマエがゼニガメを呼んだ瞬間、ゼニガメは自分の中に今まで感じたことのない不思議な感情が芽生えてきたのをはっきりと感じました。たくさんいるゼニガメから、世界でただ一体しかいないナマエのゼニガメになったのです。――もう自分には訪れないと思っていた瞬間でした。どれだけ、いったいどれだけ待ったかわかりません。
ゼニガメは、甲羅に隠していた手足と尻尾を勢いよく出しました。ついさっきまで殻にこもり続けていたゼニガメと同じ生き物だとは思えない勢いでした。でも、なんだかそうせずにはいられない気持ちになってしまったのですから、しかたがないのです。

ナマエは、自分の正面でしっかりと立つゼニガメを見て、「わあ!」と歓声をあげました。そしてからからと笑いながら、ゼニガメをぎゅうぎゅう抱きしめます。

オーキド博士はそんなひとりと一匹を見ながら、安心したように微笑みました。
ナマエはそんな博士にお礼を述べると、そのままゼニガメと一緒に研究所の入り口に向かって歩きはじめます。肩にかけられた大きなカバンがその歩調に合わせてリズミカルに揺れています。他の人より重たいカバンはさくさく冒険するには向いていないかもしれないけれど、それだけたくさんのものや思い出をつめこめます。それと同じように、他のポケモンよりすばやさの低いゼニガメには、ヒトカゲやフシギダネにないすてきなところがたくさんあるのです。

ナマエとゼニガメは、研究所の扉を開けてマサラタウンの空の下へ飛び出していきました。遠くでつがいのピジョンが高らかに鳴いている声が、春の風に乗ってかすかに聞こえてきます。
ゼニガメといっしょに見るマサラタウンの空は、なんだか今までよりも少しだけ高いような気がしました。ナマエは思わず足を止めてはるか頭上を振り仰いでしまいます。そんなナマエを見たゼニガメは、彼女の視線の追って空を見上げました。白い雲がマサラタウンの上空を吹く風に押されて、ゆっくりと形を変えながら流れてゆきます。その向こうに広がる空の青の、なんと美しいことでしょう。
ゼニガメは、ナマエにならってその足を止めました。まだまだ、旅は始まったばかり。幸い、時間はたっぷりありますしね。

(企画サイト「二人の足跡」様に提出)




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