いつものように部活を終えて教室に上がってきた俺は、いつものように扉を引き開けた先に、苗字さんしかいないことに気付いて動揺した。俺の口から「えっ?」と小さく驚きの声が漏れる。それは空っぽの教室にかすかに響いてから、溶けるように消えてゆく。
俺が教室の扉を開けた音に反応してこちらを振り向いた彼女は、「あ、おつかれ」と言って、大きく伸びをする。自分の席についていた苗字さん。机の上にはいつも彼女が持っている大学ノートと筆記用具が置かれていた。
どうして彼女がひとりで? と思うと同時に、胸の内側に不思議な高揚感がうまれて、俺の心臓をせかし始めた。いつもはみんながいて騒がしい放課後の教室が、しんと静まり返っている。その日常との些細なズレが、しかし今の俺にとっては致命傷だった。思わず扉の近くで立ちすくんでしまった俺に、苗字さんはいつも通りの笑顔でこう言った。
「待ってたよ」
その言葉にどきん、と一度大きく鼓動した俺の心臓。しかしそんなことは知る由もない彼女は笑顔のままちょいちょいっと手招きをしながら、反対の手でノートのページを繰ってゆく。
「東峰にも言っとかないとと思ってさ。お化けの配置とか、当日の流れとか」
……彼女は、文化祭実行委員として当然の仕事をしているだけだから。と、妙な期待を抱きそうになっていた自分を落ち着けて、教室の敷居をまたぐ。今日も色塗りをしていたのだろう、窓を開けて換気をしてはいるけれど、教室内にはペンキの匂いがまだ濃く残っていた。
苗字さんの席の前の椅子を借りて、ややおずおずと座る。彼女は机の上に置いていたノートを180度回転させて、俺が見やすいようにこちらにそれを寄せてくれた。少し背中を丸めてノートを覗き込むと、そこには教室の輪郭を現しているらしい長方形と、そのなかを走る曲がりくねった道が描かれていた。
「これが、お化け屋敷の地図というか、全体像」
苗字さんのひとさし指が、その道の上をつっとなぞる。俺がその指先を眺めながら頷くと、それを確認した彼女は出口にほど近いやや開けた一角を指差して、「ここが東峰の持ち場ね」と言った。どうやら俺はそこの物陰に待機して、やって来たお客さんを後ろから脅かすことになっているらしい。暗い物陰で待機か……、と思い憂鬱な気持ちになっているのを察したのか、苗字さんが「だ、大丈夫だよ、東峰、」と俺を励ますようにわざと明るい声を出す。
「東峰の持ち場、出口に一番近いとこだから、なんかあったらすぐ出てきて」
「な、なんかってなんだよ……」
顔を青くしてしまった俺は、彼女の言う『なんか』をなるべく想像しないように努めながら、ノートから顔を上げて苗字さんを見遣る。すると、ほぼ同じタイミングで顔を上げた彼女と目が合った。自分の言った『なんか』を想像してしまったのか、それに怯えるように色を失った彼女は、静かに首を横に振りながら「一旦この話はやめよう」と言った。
……俺も今、こんな顔をしているのだろうか。苗字さんと同じ顔をして、同じものに恐怖しているこの状況は、恐れおののいているにも関わらず、なんだかとても幸福なことのように感じられてしまう。俺は思わず持ち上がりそうになった口角を隠すように、慌てて下を向いた。視界に飛び込んできたお化け屋敷の設計図には、何度も書いては消し書いては消しを繰り返したのだろう、いくつもの筆跡がうすく残っている。
それを見た俺は、どうしても早まってしまう自分の心臓を恥じずにはいられなかった。きっと純粋に文化祭を成功させたい苗字さんは、俺がこんなにどうしようもない感情を抱いているなんて、夢にも思わないんだろう。
「なんにもないよね、なんにも」
自分を落ち着けるように、そう小さく言った苗字さん。俺は彼女のこの頑張りを無下にしてしまいかねない『なんか』なんてあってたまるかと思いながら、彼女の言葉に頷いた。
そして、机の上のノートを眺めながら、このどうしようもない感情がこれ以上大きくなってしまうことのないようにしようと心に決めた。俺はたぶん、そう、もっと純粋に、彼女のことを応援したいのだ。
←