全ての装飾品が完成した3組の教室に、女子生徒たちの歓声が響く。
「間に合ってよかったねえ」と言ったクラスメイトに、苗字さんは「ほんと、よかったー」と心の底から安堵したような声を漏らした。そして、出来上がったおどろおどろしい装飾を眺めて、恐怖と喜びの入り混じった複雑な笑みをこぼす。

いよいよ文化祭を二日後に控えた烏野高校は、ほとんどのクラスが最後の追い込みに追われていた。明日の午後からは授業もなく、文化祭のための準備に充てられることになっている。お化け屋敷のように教室を大きく装飾しないといけない出し物は、明日の午後はその時間のほとんどを教室の飾りつけに取られることになるだろう。こまごまとした作業を今日中に終わらせることが出来た3組は、安心して明日を迎えることが出来る。

「名前ちゃんのおかげだよー」「ほんとに」「苗字さんが実行委員でよかったわ」などと口々に苗字さんを褒める女の子たちに、彼女は照れたように笑ってから、「いやー、みんなのおかげだよ」とごく謙虚な言葉を口にした。

「この調子で、明日も本番も、よろしく」

そのままぺこりと頭を下げた苗字さんは、彼女たちに片付けの指示を出して、そのまま設営係のリーダーの元へ向かって早足で駆け出した。そんな苗字さんの背中を見送ってから、彼女たちは言われた通りに手を動かす。

「なんか苗字さんって、意外としっかりしてるよねー」
「ね、もっと大人しい子だと思ってた」

手と同じくらいよく動く口が苗字さんについて話しているのを片方の耳で拾いながら、俺はいつの間にか俺の担当になっていた掃き掃除をするために、ホウキの収められているロッカーを開ける。ホウキを取り出す俺のもう片方の耳は、設営係のリーダーと明日の午後の打ち合わせをする苗字さんの方に向いていた。効率よく準備をして、リハーサルまで出来たらいいなあ、と言う苗字さんに、設営リーダーの男子生徒は「ま、大丈夫だろ、任しとけって」と豪語する。

「はは、頼もしいねぇ」

苦笑交じりにそう言った彼女の声が、嫌にはっきりと俺の鼓膜を揺らした。
俺は、なるべく無心でホウキを動かすことに集中した。どうしても彼のあけすけな性格を羨んでしまいそうになるのを抑え込もうとしていると、そんな俺を見ていたらしい別のクラスメイトが「お前どーした、顔こええぞ」と、やや声を潜めて言ってきた。
俺は不機嫌だと思われてしまったことに焦ると同時に、苗字さんのことや、設営係のリーダーに抱いてしまった嫉妬めいた感情がばれてしまったのではないかと動揺してしまった。「えっ、と、いや、」と口走りながら、自分よりも少し背の低いこのクラスメイトになんと言うべきか、考えを巡らせる。どう言えば、この感情を隠したまま誤解を解けるだろう。
思案に暮れる俺が何かを言うより早く、目の前の男子生徒はその顔を大きく破顔させた。面食らった俺が「、えっ?」と上ずった声を漏らすと、彼は声を上げて笑いながら「ほんっとお前は顔だけだよなー」と言って、俺の背中をべしっと叩く。そしてからからと笑いながら、ロッカーからホウキを取り出して掃除を始めた。手を止めたまま固まってしまっていた俺の向かいでやや雑にホウキを動かしながら、彼はこう言った。

「本番、だいじょぶかー?」

なんでもない雑談をするように彼の口から飛び出してきたその言葉は、しかし俺をしっかりと惑わせた。ついさっき苗字さんに任せろと豪語していた設営係の声と、苗字さんを応援したい俺の気持ちが交錯する。

――俺は、たぶん、彼のように任せろと言いたかった。
けれど口から出てきたのは「うん、まあ……うん」という歯切れの悪い言葉だけで。俺は豪快に笑い飛ばすクラスメイトから視線を外して、ほとんど何も考えずにそれを苗字さんの方に移した。
おずおずと見遣った先の苗字さんは、そのはっきりとした印象の瞳で静かに俺のことを見ていた。目が合ってしまった、と思った瞬間、彼女はその双眸を和らげて笑う。その笑みはここ最近で見慣れた、ごくこく彼女らしいものだった。しかしその隣にいる設営係のリーダーがこちらを見ていることに気付いた俺は、どうしてもいたたまれなくなって、微笑む苗字さんから思いっきり視線を逸らしてしまった。

……またかよ。と自分で自分が嫌になった。視界の隅に消えてゆく苗字さんの、少し驚いたような、あるいは焦ったような表情が、頭の中から消えない。
いい加減愛想をつかされるんじゃないか、という焦りと、いやでも彼女なら大丈夫なんじゃないだろうか、とその優しさに甘えてしまいたい気持ちが、ぐちゃぐちゃと混ざっていく。

煮え切らない気持ちのままもう一度ちらりと盗み見た先の苗字さんは、設営の打ち合わせを終わらせたらしく、後片付けに精を出していた。作業しやすいように教室の脇に避けていた机を、その小さな体で元に戻そうと奮闘している。
ホウキを握る俺の手に、ぐっと力がこもった。きっと、苗字さんのことだから、俺が今ここでなにもしなくても、また今日の帰り道か、明日の朝かに、俺の様子を窺うために声をかけてくれるんだろう。気配りの出来る彼女は、文化祭の成功のために、きっとそうする。

頭の中に、それでいいだろ、と言う声が響いていた。余計なことして悪い印象持たれたらどうするんだ?
けれど頭の片隅で、それじゃあダメだろ、という叫びが上がった。いつまでも彼女に甘えたままで、情けないと思わないのか?

思うよ、思うけど。でも。いや。
俺は煮え切らない気持ちのまま、手にしていたホウキを教室の壁に立てかける。白い壁に出来た俺の影は、頼りないかもしれないけれど、それでも今の彼女の役に立てる程度には、大きいはずだ。俺は拭いきらない不安をそのままに、意を決して踵を返す。一緒に掃除をしていた男子の訝しげな視線を背中に痛いほど感じながら、ひとりで机を直す苗字さんに声をかけた。

「苗字さん。えっと、それ、手伝おうか、と思って……」

振り返った彼女と、ばちんと目が合う。緊張に耐えられず尻すぼみになってしまった語尾は、果たして苗字さんにきちんと届いただろうか。




ALICE+