「苗字さん、」

俺の声に反応してこちらを振り返った苗字さん。その勝気な瞳が、真っ直ぐこちらに向かってくるのに戸惑いながら、俺は用意していた言葉を続けた。

「えっと、それ、手伝おうか、と思って……」

言葉の最後に近付くにつれて俺の声は小さくなり、おまけに震えてしまった。机を持ち上げようとする格好のまま固まってしまった苗字さんは、きょとん、とした表情を浮かべて俺を見上げる。いつも明るく饒舌な彼女が何も言わないことが、ひどく俺を不安にさせた。きっと彼女が黙り込んでいたのは時間にすれば数秒にも満たないのだろう。けれど俺には、その気まずい沈黙が永遠のように感じられたのだ。
背中の筋肉がぎりっと強張っているのが自分でもわかる。全身を支配している緊張がピークを向かえようとした瞬間、苗字さんは驚いたように見開いていたその瞳を、きゅっと細めて笑った。くすくすと笑う彼女に、安心したのが半分。状況が理解できずに戸惑ったのが、もう半分。状況について行ききらないまま呆然と彼女を見下ろしていると、笑いの発作を治めた彼女が、唇の両端を持ち上げたままごく愉快そうにこう言った。

「あ、ごめん、ちょっとびっくりして」
「え……すみません?」

驚かせてしまったことに対して漠然と謝罪をすると、苗字さんは慌てたように「あ、ううん、違くてね、」と矢継ぎ早に否定の言葉を口にする。

「うん……。嬉しかったって言った方が、近いかな」

彼女はそう言ってから、手をかけていた机をよっと持ち上げた。いつもぴんと伸びている背筋が、重いものを持ち上げるために背後に逸らされる。肩にかかっていた髪が、支えを失ったようにはらりと垂れた。

「だって東峰、いっつも私から逃げるじゃないですか?」

机の脚がぎりぎり床に着かない高さを保ったままひょこひょこと歩く苗字さん。その顔に浮かんだ少し悪戯っぽい笑みに、俺は思わずうろたえてしまう。「えっ、いや、それはさあ、」と弁明するための言葉を口から押し出すと、苗字さんはまたごく愉快そうにくすくすと笑った。彼女の跳ねるような笑い声が、耳をくすぐってゆく。こそばゆいような、恥ずかしいような、なんとも言えない感情が一気に腫れ上がるのを感じた俺は、それをなんとか押しとどめようと苦心する。

しかし苗字さんは俺のその努力を嘲笑うように、こう言った。

「嫌われてたらどうしようかと思ってたけど……よかった」

彼女らしい明瞭な口調。ぴんっと軽快に持ち上がった語尾。何も言えずに見つめる先の鮮やかな笑みは、やはり少し悪戯っぽい。……俺は、冗談ともとれる彼女のその言葉にこんなに心を揺さぶられていてはいけないのだ。苗字さんが望んでいるのはお化け屋敷の成功で、俺はその手助けがしたいだけなのだ。

「……嫌われるんなら、むしろ俺の方だろ」

なるべくなんでもない会話になるように、言葉と口調に気をつかった。ちょっとだけ唇の端を持ち上げて冗談めかしてそう言った俺に、苗字さんのまっすぐな声が向かってくる。

「え? 嫌うわけないじゃん」

――どうして、俺はいつもこううまくいかないんだろう。
苗字さんは、きらきらと眩しい笑顔でそう言った。きっと彼女は俺の苦悩なんて知らないんだ。押しとどめておこうとした感情は、ちっぽけな俺を尻目にどんどんふくれてゆく。

「ていうかさ、手伝ってくれるんでしょ?」
「お、おう」

俺は彼女の声に背中を押されるように動き出した。教室の隅にかためられた机のひとつを持ち上げて、運ぶ。いそいそと働く俺に、苗字さんはこれまた眩しい笑顔で「ありがとねー」と言ってから、自分もよいしょと机を持ち上げた。




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