苗字さんは、明るい日差しをいっぱいに取り込む窓に右手をついてがっくりと肩を落としていた。俺は「苗字さん、」と言いながら彼女の肩に手を置いたのだが、どうやら俺のその行動は怖い思いをしたばかりの彼女を驚かせてしまったらしい。苗字さんはその肩を大きくびくっと震わせながら、勢いよくこちらを振り返った。その勢いに驚いてしまった俺は、彼女と同じようにびくっと肩を震わせて固まってしまう。驚きから大きく見開かれた彼女の瞳にびびったような表情の自分が映っているのを見ながら、俺は「あ、えーと、」と意味のない言葉を唇から押し出して、苗字さんの様子を窺う。
肩を叩いたのが俺だということに気付いた苗字さんは「あ、東峰か……」と溜息混じりにこぼして、すぼめていた肩をふっと緩めた。そして、取り乱したことを恥じるように、少しだけ笑う。

「なに?」
「いや、大したことじゃないんだけど……」

だいじょうぶか? と、顔色を窺うように問いかけると、苗字さんは一瞬きょとんと目を丸くした。そして「あー、……見てた?」と言ながら視線を窓の方に逸らして、バツが悪そうに左の頬をちょこちょこと掻いた。俺は、それに「あ、うん、」と頷く。
すると苗字さんは俺を真っ直ぐに見上げて、ただ一言、こう言った。

「……やばいよ」

主語は省略されていたが、彼女がなにについてやばいと言ったのかは、会話の流れから明白だ。彼女の意識の中心にあるのは、つい先程彼女が身をもってその恐怖を体験していた、わがクラスのお化け屋敷の暗闇。本番では俺がお化け役として待機することになる、それ。
俺はごくりと生唾を飲み込んで、苗字さんの神妙な表情を見つめる。張り詰めた口元を動かして、彼女はこう続けた。

「東峰、大丈夫?」

苗字さんの口から出てきたのは、俺を気遣う言葉だった。俺はそれに面食らってしまう。ついさっき、あれだけ怖がっていた彼女が、もう次の瞬間には自分のことを考えてくれている。それが嬉しくもあり、しかし同時に、彼女に気遣われるばかりの自分が、ふがいなくもあった。
複雑な気持ちを抱えながら俺は、彼女の瞳を凝視する。いつもは勝気そうなその瞳は、よく見ると僅かに揺らいでいた。俺の背後にある3組の扉、その向こうにある暗闇。それに怯えながら、でも彼女がとっさに気遣うのは、情けない俺のことだ。その事実が俺の胸を強く揺さぶった。
苗字さんは優しいから。何度でもこうやって俺を心配してくれるに違いない。

安心して欲しいと、思った。

「おう、任せろ」

その瞬間、どんなに意識しても言えなかった言葉が、口をついて出た。
俺の喉を通ったとは思えないような力強い言葉に、苗字さんは驚いた表情を浮かべる。ぽかん、と僅かに口を開いて、俺を見上げる。こちらに真っ直ぐ向かってくるその瞳から、怯えるような色が消え去っていた。俺はその事実に安堵して、それからようやく、自分の口にした言葉について考えを巡らすことが出来た。……あれ? 俺、任せろって、言った?

焦りに似た感情が自分の中で爆発したのがわかった。口をついて出た言葉の重大さに気付いた俺は慌ててそれを取り消そうする。しかし、それよりも早く、苗字さんがぽかんと開いていた口を動かした。

「うん、任せたよ」

どこか熱に浮かされたような口調でぼんやりとそう言った彼女は、それから思い出したようにその呆けたような表情をゆっくりと笑顔に変えた。

「ありがとう。もうちょっと頑張れそうだ」

ごくしとやかにそう言って、彼女は教室の中に戻ってゆく。
今までの俺だったら、きっとその言葉をすぐには信じることが出来なかっただろう。裏の裏を勘ぐって、ネガティブになって、勝手に気落ちしてしまっていたに違いない。
……俺は、苗字さんのおかげでもう少しだけ頑張れそうだよ。そう思いながら、去ってゆく彼女の背中を眺めていた。




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