宮城県立烏野高等学校、と書かれた正門が、カラフルなアーチに様変わりしていた。昇降口から教室まで続く廊下にも、宣伝のポスターや各クラスの装飾が所狭しと並んでいる。普段ならばまだ人もまばらなはずの早朝の教室も、そのほとんどに明かりが灯り、にぎやかな声が漏れている。
昨年も見た筈のその光景が、今年は三割増しで鮮やかに見えた。我ながら単純だと思いながら、こみ上げてくる苦笑を抑えるために小さくひとつため息をつく。あんなに嫌だったお化け屋敷が、今では少し、楽しみになってしまっているのが自分でもわかった。これから真っ暗な中でお化け役をやらないといけない憂鬱な気持ちよりも、3組の教室が近付くに従って大きくなってゆく別の感情の方が、強く俺を支配するのだ。

俺は一度深呼吸をしてから、3組の扉を引き開けた。中にはクラスメイトが数人いて、談笑しながら最後の調整に励んでいたらしい。扉の開く音に反応して視線を上げた彼らは、戸口に佇む俺を認めて口々におはようと挨拶を投げかける。同じように挨拶を返して教室内に歩を進めると、通路の向こうからひょこりと苗字さんが顔を出した。教室に近付くにつれて軽快なリズムを刻んでいた左胸が、一際大きく跳ねる。

「東峰、朝練は?」

文化祭があるから今日は練習が休みになっていることを告げると、苗字さんはその瞳をきらりと輝かせて「じゃあ、手伝ってもらってもいい?」と言って、右手に持っていた養生テープをちらりと示した。断るわけがない、そのために来たんだから。

「おう」

教室の隅にかためられた机の上に鞄を置きながらそう答えると、教室の中程で作業をしていたクラスメイトの間からくすくすと笑い声が上がった。向こうでなにかおかしいことでもあったのだろうか? と俺がそちらに視線を転じた瞬間、「いいように使われてんなー東峰ー」という笑いを含んだ声が飛んできた。え、俺?

「え? あ、いや……」

その言葉になんと返すべきか迷って、しどろもどろになってしまう(実際は彼女に使われるために来たのだけれど、そんなこと言ったら絶対に引かれる、言えるわけない)。視線だけで苗字さんをちらりと見遣ると、彼女は両手で養生テープをもてあそびながら、そのはっきりした眼差しでこちらを静かに見つめていた。目が合った苗字さんは、その双眸をぱっちりと開いたまま、表情を変えることなくこちらを窺うように僅かに首を傾ける。

俺が戸惑っている様子を真っ直ぐ見ていた彼女は、しばしの後、その唇の両端をきゅっと持ち上げて、鮮やかに笑った。
――それは、今まで彼女が見せてきたきらきらした快活な笑みとも、たおやかで優しげな笑みとも全く異なる、言うならばどこか意地悪な、あるいは悪戯な、笑みだった。瞳の奥できらめいた嗜虐的な光を敏感に感じ取った俺の背中に緊張が走る。もしかしたら苗字さんには、俺がどうして言葉に窮しているのかがばれているのではないか。愉快そうに細められた瞳で、何もかも見透かされているのではないか。そんな考えが頭をよぎった。

なにも言えずに見つめた先の苗字さんは、綺麗な弧を描いていた唇をゆっくりと開く。
そして、言った、「受付、つくろっか」

苗字さんは俺の様子を窺うように傾けていた首を戻して、すぐにいつも通りの勝気な笑みを浮かべた。ついさっきまでそこにあった悪戯っぽい笑みは、急速にその影を潜めて、あっけなく消える。苗字さんは聞き慣れた明瞭な口調で「受付出来たら、お化け屋敷もいよいよ完成だね」と言いながら、面食らっている俺の脇を抜けてお化け屋敷の入り口になっている黒板側の扉に向かって歩き出した。
俺はそれに「ああ、」と相槌を打って、それから思い出したように足を動かす。苗字さんの後を追って歩きながら、楽しげに揺れる後頭部を見つめる。苗字さんは今、どんな表情をしているんだろう。

「もうすぐ本番だね」
「うん、そうだな」
「長かった? あっという間だった?」
「そうだなあ、」

長かったような気もするし、短かったような、気もする。でも、もうすぐ文化祭が始まって、今日の夜には終わってしまうのだと思うとなんだか名残惜しくなってしまうあたり、

「あっという間だった気がする、かな」

俺がそう言うと、苗字さんは「そっか」と声を上げて軽快に笑った。
クラスメイトのいる教室を出たところで、苗字さんはふと立ち止まった。同じく歩みを止めた俺の視線の先で、彼女は俺に背を向けたまま、「東峰は、」と言って、しかしそのまま口をつぐむ。彼女の言葉の続きを待つ俺の口をついて出たのは、「はい、」というなんだか改まった相槌だった。文化祭の直前らしく騒がしい廊下で、俺と苗字さんの間にだけ沈黙が満ちる。

はっきりとした気まずさを感じていたわけではなかったが、俺の口からは場を取り持とうとするように、「えっと、」とか「その」という意味のない言葉がぽろぽろと小さく零れた。
それが苗字さんに届いていたのかはわからない。しかし俺が「……苗字さん?」と彼女の名前を控えめに読んだ瞬間、彼女は唐突にこちらを振り返った。彼女の髪がふわっと踊る様子をまるでスローモーションのように見ながら、俺はこちらに向いたその顔に必死に焦点を合わせる。

「今日は、よろしく」

俺に理解できたのは、苗字さんが笑っているということと、その右手をぐっと握って拳をつくり、それをこちらに向かって差し出してきたことだけだった。
苗字さんが浮かべている笑みは、ついさっき俺の思考を搦め取っていったどこか悪戯っぽい笑みの様にも、いつも見慣れた強気で眩しい笑みの様にも見えた。その瞳の奥にある嗜虐的な、ともすれば熱っぽいような色が、俺の視線を奪う。
苗字さんの表情の意味も、瞳の奥にあるものも、俺ではきっと正しくはかれない。

けれど、それでいいのだ。
こちらに差し出された彼女の拳に、俺は「おう」と言いながら自分の拳をこつんとぶつけた。これで、十分だ。これで俺は今日が終わるまで頑張れる。




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