きっと、この壁の向こうには明るい光がいっぱいにあふれていて、楽しげな露店がたくさんあって、烏野の生徒だけでなく多くの人が行き交っているのだろう。
お化け屋敷へと姿を変えた3組の教室には、光も、楽しげな雰囲気も、人の気配も、ない。俺は暗闇の中、苗字さんに言われた物陰に隠れてお客さんがやって来るのをじっと待つ。そして、俺に気付かず通り過ぎて歩いていくお客さんの背後になるべく静かに忍び寄る。それが俺に任された仕事だった。たったこれだけで怖がらせることが出来るのか不安だったが(俺だったら絶対ビビるけど)、気付かないうちにすぐ背後に人が立っているというのはどうやらかなり怖いものらしい。びくんと肩を震わせたり、大声をあげたり、反応は人それぞれだったが、ほとんどの人が期待していた反応を返してくれた。
悲鳴を上げられる度にその声に驚き、また、そんなに怖がらなくても、と少しだけ気落ちしてしまいそうになる点を除けば、俺を含めて3組のお化け屋敷はかなりいい線をいっているようだった。なにかトラブルがあった時のために出口付近に待機していた苗字さんが、明るい廊下から顔を覗かせて「すごいよー30分待ち!」と興奮を隠しきれていない小声で俺たちに報告してくれた。それに、お化けとして教室内に待機していたクラスメイトが少しざわめく。

光を遮断するために隙間という隙間を塞いだ教室には、光同様音も入って来にくくなっている。外の状況がほとんどわからないお化け組は、苗字さんの言葉で初めて自分たちの出し物の盛況具合を知ることになった。
俺とは少し離れた位置に待機している女の子二人が嬉しげに言葉を交わしているのが、微かに聞こえてくる。気合の入ったお化けたちのサービスのおかげか、お客さんから上がる悲鳴が心なしか大きくなった気がすることに苦笑しながら、俺はごく真面目に自分の仕事をこなしていたのだが。

そろそろ一回目の交替かなという頃に、それは起こった。

お客さんには、お化け屋敷に入る前に懐中電灯が渡されることになっている。お客さんは懐中電灯を頼りに暗闇を進み、俺たちはその明かりを頼りにお客さんの位置を掴むのだ。ただ、暗闇に慣れた俺たちの目には、懐中電灯の光は眩しすぎる。そのせいで、明かりを持ったお客さんの顔は、その明かりのせいでむしろ見にくくなっていた。顔はおろか性別も、悲鳴を聞くまでわからないことが多い。
もしもあの時のお客さんの顔が見えていれば、もう少しマシな結果になっていたのかもしれない。あるいは、ここまで完全に外の情報がシャットアウトされていなければ。

俺がお客さんの背後に忍び寄って驚かせるところまでは、計画通りだった。
このお客さんはびっくりしすぎてしまったみたいで、足がもつれて転んでしまったが、それも苗字さんの想定の範囲内だった。俺の担当する一画には、俺の足音を消すことと、驚いたお客さんが転んでしまってもけがをしないようにすることを目的に、マットが敷かれていたのだ。ぼふん、と音をたてて、お客さんがマットに膝をつく。はずみで取り落としてしまった懐中電灯を、俺はとっさに拾ってお客さんの方に差し出した。お客さんが転倒した場合はまず声掛けを、と言っていた苗字さんの言葉を思い出しながら、「だ、大丈夫ですか?」とお客さんに問いかける。
無意識のうちに相手の顔の方に向けた光の先に照らし出されたのは、中年の男性の顔だった。見覚えのある顔だった。朝礼のたびに見てきた、ややしもぶくれた輪郭、鼻の横にある特徴的なホクロ。教頭だ、と思った瞬間、俺はある重大な違和感に気が付いた。

髪が、ない。

暗闇の中、懐中電灯の黄味を帯びた光の中で、目の座った教頭と視線がかち合った。電撃のような衝撃が俺の体を走り抜ける。いまだかつて感じたことのない衝撃に、全身の筋肉がぎりりと緊張する。首筋を伝ってゆく冷たい汗の感覚だけをリアルに感じながら、俺は動くこともできずにただただ教頭を見つめた。
勿体つけるようにゆっくりと立ち上がった教頭は、その戦慄を覚える頭のまま、ゆらりとこちらに右足を出した。俺は息をすることも忘れ、じりじりと後退る。しかし、背中はすぐに壁にぶつかった。どこにも逃げられない。一歩、一歩と近付いてくる教頭。もうだめだ、と思った瞬間、

「っ、大丈夫ですか!?」

お化け屋敷の出口の扉が開き、一条の光とともに苗字さんの声が闇を裂いて響いた。
白い太陽の光を背負いながらこちらに駆け寄ってきた苗字さんは、壁際で硬直する俺と、懐中電灯の光の先の教頭を見て、その表情を失う。

苗字さんは無表情のまま足元に視線をやって、そこに落ちていた黒い塊を無造作に拾い上げた。

「こちらを……」

ごく静かな声でそう言って、それを教頭に返す。苗字さんの手で持ち主に返ったそれを無言でかぶった教頭は、苗字さんに「責任者は君かね?」と感情のない声で問いかけた。「はい」と無機質に頷いた苗字さんから俺に視線を転じた教頭は「君も、ちょっといいかな?」と、いまだに懐中電灯を持ったまま震えている俺に拒否権のない質問を投げかけた。
俺は声にならない声を喉の奥から押し出しながら二度顎を引いて頷く。「名前ー? なんかあったの?」というクラスメイトの声に苗字さんは「ちょっと行ってくるから、あとは村下に任せる」と抑揚のない声で淡々と答えて、教頭の後に続いた。俺はスイッチの入った懐中電灯を持ったまま、この世の終わりのような顔をして二人の後を追った。




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