「失礼しました」と言って校長室から出た俺は、恐る恐る苗字さんの顔を見遣る。快活でにこやかな普段の様子からは想像もできない無表情で教頭の説教に頷いていた彼女は、校長室を出るなり盛大なため息をついた。
「はあー、」
肺の中の空気を吐き出した苗字さんは、強張っていた肩の緊張をといて、鬱々とした気持ちを振り払うようにふるふると頭を数回横に振る。そして、おろおろと彼女の様子を窺う俺を見上げて、その口角をちょっとだけ持ち上げた。いつもの強気な笑顔と比べてやや力なくはあったが、彼女が笑ってくれたことが、何よりも俺を安心させた。俺もそれにつられるように、少し笑う。よかった。俺のせいで面倒事を起こしてしまったけれど、お化け屋敷はなくならなかったし、苗字さんも怒っていない。
……そう、お化け屋敷は教頭に目を付けられてしまったにも関わらず、奇跡的にも営業停止を免れた。
俺は、もう絶対に俺のせいで中止になってしまうと思って絶望的な気持ちになっていたので、教頭が『帽子』の件を絶対に口外しないことを条件に今回の件を見逃してくれると言ったときは本当に、本当に心の底から安堵した。苗字さんが今日まで準備してきたものを、クラスのみんなが楽しそうに取り組んできたものを、俺のせいで中止にしてしまった日には、今すぐこの場から逃げ出して、もう二度とお日様の下を歩けなくなっていたと思う。
けれど、そうはならなかった。苗字さんの頑張りは無駄にならなかった。
申し訳ない気持ちは確かにあったが、それよりも今は安堵の方が大きい。見つめる先の苗字さんは、薄く笑ったままその視線を床に落とす。そして、ゆっくりと噛みしめるように、こう言った。
「……東峰、ごめん」
「……え?」
それは、俺の予想していたどの言葉とも違うものだった。びっくりしたね、とか、よかったね、とか、あるいは俺を少しからかうような言葉だとか、そういう明るい声が飛び出してくると思っていたのだけれど、実際に彼女の喉を揺らしたのは、重く響く謝罪の言葉だった。
期待と違ったその言葉に面食らった俺は、彼女がなにについて謝っているのかが理解できずに固まってしまう。苗字さんはこちらを見ることなく、続けた。
「せっかくお化けやるって言ってくれたのに……。ごめん」
苗字さんはそう言って、いつもぱっちりと開かれている瞳をぐっと辛そうに細める。
俺は彼女のその言葉を聞いて、ようやく彼女の意図を理解した。苗字さんは、俺がお化け役をやめないといけなくなってしまったことを謝っていたのか。
教頭は、俺がお化け役を続けることをどうしても許さなかった。「もしも一般の方が自分と同じ被害に合ったらと思うと……これだけは譲れないね」と神妙な表情で言った教頭の要望を、俺たちは飲むしかなかったのだ。
俺は、たったそれだけでお化け屋敷が中止にならないのなら安いものだと思ったし、どんなに自分を鼓舞したとしても、苗字さんのために頑張りたい気持ちがあっても、やっぱり暗い所は、怖い。お化け役を辞めなければならなくなったことを、俺は全く気にしていなかったのだけれど……、
「えっと、」
俺は彼女になんと言葉を返すべきか考える。そもそも今回の事の発端はどう考えても自分にあるし、なにより、苗字さんが俺のことでこんなに悩んでくれているとも知らないでお化けをやらなくてもよくなったことを喜んでいたことが、申し訳なかった。
俺は、「いや、俺は全然……、むしろ謝らないといけないのは俺の方というか……」と言って、苗字さんに謝罪をする。「すみません」と、言い慣れた言葉をいつものように口にした。
俺のその声から逃れるように、苗字さんは顔を背けた。苗字さんの横髪が、その表情をさっと隠す。
間違えた、と思ったときには、もう遅かった。苗字さんは感情を殺すように大きく一回深呼吸をしてから、「ごめん、東峰は先に戻ってて」と言って、教室とは反対の方向へずんずん歩き出してしまった。彼女の口調は普段のそれに近い、ごく明るいものだったが、それがかえって俺の心臓を締め付けた。いつも見ていた小さな背中が、遠ざかってゆく。
俺は、彼女を呼び止めることが出来なかった。俺が面倒事を起こしてしまったから、俺がかける言葉を間違えてしまったから、こんなことになってしまったのだ。彼女を呼び止めるなんて出来るわけがない。俺の声なんて聞きたくないかもしれない。無視をされてしまうかもしれない。優しい苗字さんは、一応は立ち止まって俺の話を聞いてくれるかもしれない。でもまた言葉を間違えてしまうかもしれない。それで彼女を傷付けてしまうかもしれない。もしかしたら、俺が気付いていないだけで、今までにもそういうことがあったのだろうか。だとしたら俺は、どんな顔をして彼女に向き合えばいいのだろうか。
苗字さんが上履きのまま、正面玄関から外に出ていってしまう。文化祭に訪れた人ごみの中に、黒いブレザーを着た背中が紛れて、見えなくなる。
きっと俺は、彼女を追いかけたかった。逃げ出した俺を追って来て、声をかけてくれた彼女のように、その背中を呼び止めたかった。
けれど、俺の足は苗字さんに言われた通り、教室に向かって進んでゆく。お化け屋敷は無事だったことをクラスのみんなに伝えないと、なんてもっともらしい言い訳を頭の片隅で繰り返しながら歩いた。きっと苗字さんは大丈夫だ。俺なんかが行かなくっても、彼女なら、きっと。
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