!後味がよくないかも
見渡す限りどこまでも続く砂の大地。その地平線に沈んでゆく赤銅色の太陽をぼんやり見つめながら、私は乾いたパンを噛みしめていた。
咀嚼するたびに、口の中でじゃりじゃりと高い音が弾ける。鞄に入れていたにもかかわらずパンに砂が付いてしまっていたようだが、私は気にとめることなく食事を続けた。
なぜなら、ここは砂漠の真ん中なのだ。食事にとやかく言っている余裕はない。とにかくエネルギーを補給しなければ、砂漠を無事には越えられない。
パンに口内の水分をそっくり持っていかれた私は、鞄の中から水筒を取り出して、丁寧に一口、口に含む。
水が甘いということを知ったのは、この仕事を始めてからだ。ぬるい水をゆっくりと味わうように飲み下す。眠っていた間に乾ききっていた体に、命の水が染み渡ってゆく。
私が水の恵みに小さく息をつくと、不意に、ノクタスの乾いた声が私を呼んだ。唸るような、低い声。私は燃える太陽から視線を外し、私の脇に佇むノクタスを見遣る。
彼は砂の大地に長い影を落としながら、私を真っ直ぐに見つめていた。夕日を受けて、その黄金色の瞳が鮮やかに輝いている。
「ごめん、すぐ用意するね」
私は彼に一言そう謝ってから、鞄を手繰り寄せる。慣れた手つきで中を探り、運んでいる荷物を掻き分けて20センチ四方のスポンジを取り出すと、それに水筒の水を含ませて彼に向かって差し出した。
私の手からスポンジを受け取ったノクタスは、礼を言うように一声鳴いてからスポンジに口をつける。彼の真っ黒い口が水をすする音が、静かな砂漠の夕暮れに響いた。ずるずると、じゅるじゅると、うまそうな音をたてて水分を吸いつくしたノクタスは、ゆるい笑みを浮かべ、乾いたスポンジを私に差し出し返す。
彼の食事の様子を見つめていた私は、スポンジを受け取って鞄に収めると、最後にもう一口だけ水を飲んでから立ち上がった。
そして、首からペンダントよろしくさげているコンパスで方角を確認し、街を目指して歩きだす。
乾燥した砂は靴の下でさらさらと崩れて、私の足を絡め取ろうとする。私はバランスを失わないように全身の筋肉を使いながら、一歩ずつしっかりと歩いた。
生き物のいない砂の世界は、風がやむと本当の無音が訪れる。その静寂に、私が砂をかくように踏む音が大きく響く。
そんな私の不格好な足音に隠れるように、ノクタスのしっかりした歩調の足音が微かに聞こえてくる。私が体勢を崩さないように小さめの歩幅で三回足を出すところを、大きく一回足を出すだけで私について来る彼。その安定した足取りが、少しだけ羨ましい。
歩調を緩めることなく視線だけで彼を見遣ると、不敵な笑みが薄い闇の中に浮かんでいた。ゆったりとした動作で、しかし確実についてくるノクタス。その黄金色の瞳が、闇の中に浮かび上がる。綺麗なまん丸の瞳で、私のことを真っ直ぐに見つめている。
私はしばし彼のことを眺めた後、唇を引き結びながら前を向き直した。そして、歩くことに集中する。
太陽がすっかり姿を隠した藍色の空では、いつの間にか銀色の月が輝きだしていた。
本格的な夜の訪れを感じた私は、麻のマントの前をしっかりと合わせながら天蓋に浮かぶ月を見上げる。昨日よりも少し欠けた月が、私とノクタスの旅路を静かに見守ってくれている。
砂漠を歩いて旅するときに水の確保と同じくらい重要なのは、太陽による消耗をいかに避けるかだ。そのために、砂漠を往く者はみな、昼間に休んで、夜歩く。
街で普通の生活していた頃の私は、砂漠の常識なんてひとつも知らなかった。身ひとつでこの世界に飛び込んだ私に砂漠の歩き方を教えてくれたのは、仕事の先輩だった。
ノクタスを連れて歩くことを教えてくれたのも、その先輩だったなあ。私は自分の足音の影に隠れるように聞こえてくるノクタスの足音に耳を傾けながら、今はもういない先輩のことを思い出す。
ノクタスは夜行性のポケモンだから、砂漠を歩く自分とはとても相性がいいんだと言って笑っていたあの人。
昼間は、遮蔽物もなく日差しの厳しい砂漠に佇み、貴重な日影を作ってくれる。夜は、旅人が足を止めてしまわないように、ずっと後ろをついて来てくれる。もしも砂漠で倒れた時も、最後まで俺たちを助けてくれる。だからお前もノクタスを持つといい。
パートナーのいる旅は素敵だろうなあと思った。ひとりでは寂しい夜の砂漠も、一緒に歩いてくれるノクタスがいれば怖くないに違いない。
私はあの人の言葉に従ってノクタスを手なずけ、一緒に旅をするようになった。そして何度もの夜を過ごしたある日、私の後を無言でついてくる彼と目が合った瞬間、私は唐突にあの人の言葉の、「最後まで俺たちを助けてくれる」という言葉の本当の意味を悟った。
ノクタスは、決して義侠心や、楽しい気持ちから私と一緒に旅をしているのではない。
彼は、私が砂漠の真ん中で疲れ果てて動けなくなるのをずっと待っているのだ。
今だってそう。彼はあの金の瞳で、私の背中を見つめている。暗闇の中でぎらりと光るその眼差しを、背中に痛いほど感じている。
彼の視線を意識した瞬間、私の引き結ばれた唇の端がひきつるようにぴくりと痙攣した。たとえ私が彼に毎日水をやり、毎日一緒に生活していたとしても、その事実はきっと彼の本能にはかなわないだろう。ノクタスというのは、そのように生まれついたポケモンなのだ。
もしも私が倒れたら、ノクタスは私を餌にするだろう。いつも私がやる水を含ませたスポンジを吸うみたいにじゅるじゅると体液をすすって、私はからからのミイラになってしまうに違いない。
けれど、それはノクタスが私にしてくれる最後の手助けになるだろう。私は肩にかかる鞄の重みを感じながら、その中に入っている”荷物”のことを思った。美しいケシの花が絶えず咲き誇る砂漠の秘境で仕入れたそれ。こんなものを運んでいることがばれたら、故郷にいる私の家族にもきっと迷惑がかかる。ノクタスの手にかかって、誰だかわからないミイラになってしまえることは、私みたいな仕事をしている人間にとっては最後の救いなのだ。
銀の月が浮かぶ空。波のような風の跡を残す砂丘。静かな砂漠を、私とノクタスは今日もふたりきりで歩いてゆく。重い足を前へ、前へ、出して。倒れないように。彼の金色の視線を背中の真ん中に感じながら。
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