理由はなかった。なんとなく、そこにいるんじゃないかと思った。裏門を出て左、烏野高校の校舎を背後にいただくなだらかな丘に、見慣れたその背中はあった。
校舎から漏れてくる騒がしい熱気と、丘を駆け上がってくる少し冷たい風。それらが交じり合う不思議な空気の中で、彼女は草原に腰を下ろしていた。普段はぴんと伸びている背中が丸まっているせいか、身長の割に大きく感じられるその背中が今はひどく小さく見えて、戸惑う。
彼女になんと声をかけるべきか決めかねていた俺は、何も言えないまま彼女の背後に立ち尽くす。背後にさした影に気付いた苗字さんは、首を少しひねってこちらを振り返った。髪の毛の隙間から、その勝気な印象の瞳が覗く。
いつも明るい声で俺の名前を呼んでくれる彼女は、しかし何も言わずに顔をそらし、黙ったまま自分の右側の地面をぽんぽんと叩いた。そしてその手で両ひざを胸に引きつけるように抱え込む。
座ってもいい、ということだろうか? ややおずおずと、苗字さんの隣に腰をおろす。彼女の顔を見ることがためらわれた俺は、丘の下に広がる休日の烏野の町を見下ろした。背後から漏れてくる賑やかな空気とは対照的に、町は静かだった。
「……なんか、」
おもむろに、苗字さんが口を開く。
なんでもない事を話す様な、いつもと変わらない調子の声で、彼女は続けた。
「こんなに東峰と仲良くなると思わなかった」
きっと、セオリー通りにいくならば、文化祭というのは実行委員をやることになったふたりが仲良くなってゆくものなのだろう。そして、自分は臆病なお化け役に過ぎない。いやだなあと思いながら、なにもないまま、文化祭は終わるはずだった。
俺は、ゆっくりと重い口を開く。苗字さんになんと声をかけるべきか考えていたけれど、結局、彼女がなんと言って欲しいかはわからないまま。自分の口から出てきた言葉をただ並べてゆく。
「……俺も、苗字さんと、こんな風にしゃべれるようになるなんて、思わなかった」
「ね。……最初の、お化け怖いの? って聞いたときさあ、」
「ああ、」
「あのとき東峰すごく怖い顔しててさ、なにごとかと思って声かけたんだけど、」
「え、えっと、どうもすみません……」
「ううん。私は、声かけてよかったなって、思う」
明るいような、真面目なような、そんな複雑な声色で、苗字さんはそう言った。
彼女はいつもこうだ。たった一言で、俺がそうだったらいいなと思うことを鮮やかに肯定してゆく。
「……俺はさ、苗字さんがそうやって声をかけてくれたから、最後までこれたんだ」
苗字さんは、俺が言わなくてもそのくらいのことはわかっていたんじゃないかと思う。俺がお化けをやると言い出したのも、部活後に片付けを手伝うようになったのも、全部、全部彼女がいたからだ。そういうことに全く気付かないほど、苗字さんは鈍くない。それでも、俺はたぶん、これを言わないといけない。
「今年の文化祭は、楽しかった。……苗字さんがいたからだ」
わかりきったことを改めて口にするのは、どうしようもなく照れくさかった。彼女の顔を見れる気がしなかった俺は、烏野の町を見下ろしたまま、「だから、その……」と口ごもる。続けて言うべき言葉なんて持っていなかったけれど、黙っていると恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。緊張で少しかすれた声が、喉を揺らす。
そんな俺の耳に、少し照れたような彼女の笑い声が飛び込んできた。ごく控えめに、しかしどこか満足そうに笑った苗字さんは、「そっか」と言って、抱えていた両ひざに額を押し付けるように首を垂れた。顕わになったうなじに、秋の柔らかな日差しが降り注ぐ。俺はそれを見ながら、開きかけていた口を、そっと閉じた。
苗字さんは膝に顔をうずめたまま、大きく一度深呼吸をする。背中が膨らんで、ゆっくりとしぼむ。胸の中の空気を吐き出した苗字さんは、少しくぐもった声でこう言った。
「最後、か」
俺に向けられていたのか、それともひとりごとだったのかわからないその言葉は、丘を駆け上がってきた風にさらわれて消えてゆく。
苗字さんはその風に押されるように立ち上がった。そして、俺に向かってぺこりと頭一礼した。
「ごめん、最後までしっかりします」
見上げた先の苗字さんは、少し苦笑っぽくはあったけれど、その強気な双眸を細めてたしかに笑っていた。
「呼びに来てくれてありがとう」
俺は「え、あ、いや、全然、」と言いながら、つられるように立ち上がってから、――そういえば、苗字さんがどうしてあの時俺から逃げるように去っていったのかを聞いていなかったことを思い出す。
尋ねても、いいのだろうか、と思いながら見遣った先の彼女は、憑き物が落ちたような顔で大きく伸びをしていた。悩ましげな色を湛えていた瞳が彼女らしい強気な輝きを取り戻しているのを見た俺は、その瞬間、そんな疑問なんかはきっとどうでもいいんだということに気が付いた。
文化祭の期間中、苗字さんのために何かをしたいとずっと思っていた。今まで、彼女のために何かが出来たのかは、よくわからない。けれど。
「行こうか」
俺は確信を持ってそう言った。彼女は「うん」と頷いてから、俺の隣を歩く。
たぶん、これでよかったんだと思う。苗字さんも笑ってくれているし。
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