教室に戻った苗字さんは、みんなにきちんと謝罪をしてから、またてきぱきと働いた。
お化けをクビになってしまった俺は、制服に着替えてから予想よりも忙しかった受付周りを手伝うことになった。俺がお化けをやることを知っていた大地とスガは、受付にいた俺を見て、「やっぱ旭はダメだったかー」と笑っていた。いろいろとあった複雑な事情を話してもよかったのだけれど、教頭のヅラのあたりをうまくぼかして話を進められる自信がなかったので、黙っておくことにした。

普段なら放課後を待っておとなしく席についているだけの長い一日が、今日は本当にあっという間だった。校内放送で一般開放の終了が告げられて、生徒たちは冷めやらぬ興奮を引きずりながらもぽつぽつと後片付けを始める。
その例外にもれず、真面目な何人かが受付周りを片付けはじめた時、お化けチームのリーダーが「そういえば、名前はまだお化け屋敷を体験してなかったよねぇ?」と言い出した。後片付けの手順を説明していた彼女の肩が、びくんと震える。それを見たクラスメイトの、特に今日一日お客さんを脅かしまくって自信を付けたお化け係の面々が、「たしかに」「せっかくだしな」「自分のつくったものを見ないなんてもったいないよ!」「よーし、スタンバーイ」と勝手に盛り上がって、着替えを中断して暗い教室の中に戻っていった。

「ちょ、ま、やっ、ゆみ子ダメ! 絶対いやだ!」

懐中電灯を渡そうとするお化けチームのリーダーに決死の抵抗を見せる苗字さん。昨日暗闇に引っ張り込まれそうになっていた時と同じで、顔が真っ青になってしまっている。俺がふたりを止めるためにおろおろしながらも「お、おい、やめた方が……」と声をかけようとした時、男子の実行委員が俺の背中をぐいと押した。

「落ち着け苗字、東峰も付けるから」

「は? ちょ、村下押すなって、ええ!?」
「え? 東峰とかそういう問題じゃないんだってばほんと! やめて!」

お化け屋敷の入り口でなんとか踏みとどまった俺と苗字さんは、どういう訳か俺たちをお化け屋敷に押し込もうとするふたりにそれだけはやめて欲しいと声を揃えて抗議した。
不満そうな目をしたお化けチームのリーダーは、「いいの? このまま終わっても」となにやら意味深な言葉を投げかけてくる。その問いかけに、俺の心は一瞬だけ揺れた。確かに、このまま文化祭が終わってしまったら、もう苗字さんとこうして話すこともなくなってしまうかもしれない。最後になにかもうひとつ仲良くなるきっかけがあったなら。全くそう思わないと言ったら嘘になる。でも、言うべきことは決まっていた。

「それでも無理!」
「それでも無理!」

ぴたりと揃った俺と彼女の声。お化けチームのリーダーはまだ少し不満そうな顔をしていたけれど、男子の実行委員はそれにぷっと吹き出した。

「悪かった、片付けよう」

そう言った彼は、教室内に待機しているお化けたちに片付けの指示を出す。なんだよーやんねえのかよーとぶつぶつ言いながら待機場所から出てきた彼らの気持ちも、少しわかった。一か月かけて作ってきたお化け屋敷が終わってしまう。それが少し、寂しいのだ。

お化け屋敷に放り込まれずにすんでほっと胸をなでおろしている苗字さんを、ちらりと見る。……うん、やっぱり、断ってよかった。

「じゃあ、片付けよっか」

少し笑ってそう言った苗字さんに「おう」と返して、俺は彼女と一緒にお化け屋敷を片付け始めた。

つくるときは試行錯誤であれだけ時間がかかったのに、壊すのは一瞬だ。たたんだ暗幕とパーテーションを生徒会に返却し、段ボールで作った飾りをごみ袋に詰め、教室の隅にかためていた机を元のように並べる。窓をおおっていた段ボールや黒いごみ袋を剥がすと、外はもう日が落ちて暗くなっていた。
終わっちゃったねえ、と話す女の子たちの向こうで、苗字さんは席についてノートに何かを書き込んでいた。俺たちにとっての文化祭は今日で終わりだけど、苗字さんにはまだもう少し、実行委員としての仕事があるのだろう。

彼女がペンを置いて荷物をまとめ終わったのを合図に、名残惜しさから教室に残っていた数人もついに腰を上げた。昨日までがそうだったように、苗字さんが戸締りを確認して、電気を消す。仲のよい者同士連れだって昇降口に向かい、そのままそれぞれの帰路につく。

「東峰、」

靴に履き替えた苗字さんが、不意に俺を呼び止めた。
少しだけ期待をしながら、彼女の方を振り返る。苗字さんは言葉を選ぶようにしばし逡巡してから、言った。

「ありがとう」

そのままぺこりと頭を下げる。俺が慌てて「あ、俺の方こそ」と言って、あたふたしながら不格好に礼をすると、苗字さんはくすりと笑った。そして、「じゃあね」と小さく手を振る。それからこちらに顔を向けたまま、後ろに一歩足を引き、「また明日」と付け加えた。
俺は彼女を引きとめようかどうしようか迷いながら「あ、うん、またな」と返す。苗字さんはこくんと頷いてからまた一歩後ろに足を引いて、「またな」と俺を真似て言った。俺がそれに「おう」と返すと、苗字さんは少し間をあけて「うん」と言って、もう一歩後退って、それからようやく本当に踵を返して歩き始めた。

小さくなってゆく背中を見ながら、俺はまたぐるぐると考える。
もう文化祭は終わってしまった。もうお化け屋敷を成功させたい苗字さんのためにという言い訳は使えない。あの背中を追うには、別の理由が必要で、今はもう背中を押してくれる人もいなくって、やっぱり足が動かない。

なすすべなく見つめる先の苗字さんは、微かな月明かりの中をとぼとぼと歩いてゆく。
その足が、ふと、止まった。俺は息をすることも忘れて、彼女を見つめる。苗字さんは少し迷うように間を置いてから、ほんの少しだけ首をひねってこちらを振り返った。
目が、合う。俺がじっと見つめていたことに気付いた苗字さんは、驚いたように少しだけ肩を震わせた。そして、バツが悪そうにちょっと笑って、その困ったような笑顔のまま、もう一度こちらに向き直る。

延々と同じところで足踏みを繰り返す思考は、まだその出口をきちんと見付けていないけれど、俺は彼女に向かって一歩、足を踏み出した。
まるで俺のことを待ってくれているような彼女の笑みが、きゅっと深くなる。それを見た俺は、ああ苗字さんには敵わないなあと思った。彼女が立ち止まるだけで、笑うだけで、俺は簡単に自分の行動を決められてしまうのだ。

文化祭は終わったけれど、苗字さんとの日々は、まだしばらく続きそうだ。




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