机の中に手を差し入れて、次の瞬間、俺は教科書をスガに貸したままだったことを思い出した。さあっと血の気が引いてゆくと同時にチャイムが鳴って、時間に正確な古典の先生が教室の鴨居をくぐって現れる。ど、どうしよう。俺の席は後ろの方だし、このまま教科書がないのを隠して一時間やり過ごせるだろうか。ああでも、あの先生は教科書を読みながら教室内を練り歩くこともあるし、ばれてしまう可能性も捨てきれない。
日直が、「姿勢、礼」と授業開始の号令をかける。俺は机の中に手を突っ込んだまま、消え入りそうな声で「お願いします」と呟いた。

「じゃあ前回の続き、教科書開けー」

さっそく教科書!
俺は絶望しか詰まっていない机から両手を引き抜いて、深呼吸をして自分を落ち着けた。だだだ大丈夫だ、堂々としていれば、たぶんばれない、はず。先生が回ってきたら、寝たふりとかして机に突っ伏せば……ああでもそれで先生の目に止まって起こされて、教科書ないのばれたらどうしよう。それが一番よくないパターンだよな、きっと。
せっかく落ち着きかけていた俺の心が再び荒ぶりだす。背中を伝う冷や汗と、左右に泳ぐ視線。みんなが教科書をめくるか細い音が、静かな教室に満ちる。……もしかして、ばくばくとやかましい俺の心臓の音が、みんなに聞こえてはいないだろうか。俺は安心したい一心で、両隣のクラスメイトに視線をやる。右隣の男子が教科書を開いて欠伸をしているのを確認した俺は、そのまま首を微かに捻って左隣の女の子の方に視線をやった。

ばっちり目が合った。
びくん、と盛大に震えた俺の肩。席替え以来必要最低限の言葉しか交わしてこなかった、隣の席の苗字さん。彼女のいつも冷静な、ともすれば少し冷たいような印象を受けるその瞳が、真っ直ぐにこちらに向けられていた。
俺は彼女の、探るような視線に思わず身構えてしまう。苗字さんは真っ青になっているであろう俺の顔をたっぷり三秒ほど見つめ、それからその視線を俺の机の上に落とし、なにかに納得したように小さく一度、あごを引いた。

「素直に見せてって言えばいいのに」

それは、ごくそっけない口調だった。俺に聞こえるか聞こえないかの音量でそう言った苗字さんは、かたんと小さな音をたてて立ち上がると、自分の机を持ち上げてそれを俺の机とくっつけた。そして、古典の教科書を俺と彼女の机のちょうど真ん中に置く。落書きも書き込みもない、綺麗な教科書。
涼しい顔で俺の隣に座る苗字さんは、そのまま口を噤んで真っ直ぐに前を向く。先生は机を移動させた苗字さんの方にちらりと視線をやったが、特に何を言うこともなく授業に戻っていった(いつも真面目な彼女の人徳のおかげだろう、本当にありがたい)。黒板に本文の一節を書きつけて、文法解釈を説明する。単語の意味、助動詞の品詞分解、敬語の対象、時代背景の説明。流れるような解説を、苗字さんはさらさらとノートに書きつけてゆく。女の子のわりにしっかりとしたその文字に見とれていると、不意に、彼女のペン先がこんな文字を紡いだ。

見られると恥ずかしいです

思わず「すっ、すまん」と口走ってしまった俺の声が、静かな教室に小さく響いた。先生の咳払いに釣られるように、何人かの生徒がこちらを振り返り、机をくっつけている俺たちをみてくすくすと笑った。羞恥心がかあっと顔に集まって、思わず下を向いてしまう。そんな俺の隣で苗字さんは、静かな声で「すみません」と先生に謝罪をして、何事もなかったかのように授業を再開させた。

彼女の声の、美しいまでの無機質さに、ぞくりと背中が粟立った。
ぴんと伸びた背筋と、黒板を見つめる涼しい目元。つい先程俺の代わりに先生に謝罪をした唇は、既にぴったりと閉じられていて、開くような気配はもう微塵も感じられない。
見られると恥ずかしい、と言っていた彼女の言葉を思い出した俺は、慌てて彼女から視線を逸らした。僅かだがはっきりとした緊張を感じている俺は彼女と同じく背筋を伸ばして、黒板を見つめる。いつも漫然と授業を受けている俺には少し難解な言葉がいくつも綴られている黒板。普段は見つめているだけで眠くなってしまうそれと、ノートの間を、何度も視線を往復させて真面目に授業を受けているふうを装った。もちろん、苗字さんに目をやってしまわないように注意しながら。

見つめることの出来ない苗字さんの代わりに、俺の机に半分乗っかる彼女の教科書を見やる。丁寧に使われていることがうかがえる、皺ひとつない綺麗なそれ。
授業が終わったら、彼女に言いそびれていたお礼を言おう。教科書、ありがとう。そう言ったら、彼女はなんと返してくれるだろうか。俺は教科書を返し忘れていたスガに少しだけ感謝しながら、板書された解説をノートに書き写した。彼女と違ってお世辞にも綺麗とは言えない浮かれた文字が、つらつらとノートに並んでいった。




ALICE+