(00:55)

もしもし、というくぐもった声が、受話口から聞こえてくる。よかった、まだ起きていたんだな、と思いながら、東峰はおずおずと口を開く。

「あ、えと、東峰です、」

東峰は少し緊張気味にそう言ったのだが、電話の向こうの名前は全く緊張を感じさせない明朗な声で「旭くん、明けましておめでとー。それから誕生日もおめでとう!」と言って、からからと笑った。
彼女に文字ではうまく表せなかったお礼の気持ちを伝えたくて、電話をかけたはずだった。しかし、耳元に響く彼女の声を聞いただけで、言いようのない気持ちを抱えて焦れていた腹の底が、ふっと穏やかになる。

「うん、その……ありがとう」
「どういたしまして」

ぽろりと零れるように東峰の口から出たのは、たったひとつの言葉だった。それに彼女は、ごく慎ましやかな調子で、やはりたったひとつの言葉を返した。

たったそれだけの短いやりとりで、全てが伝わったとは到底思えない。しかし、どういうわけだか、あれだけ自分の気持ちをわかって欲しいと思っていたはずの東峰は、もうその衝動をすっかり忘れてしまっていた。その代わりに、今年最初の煩悩がどんどんと大きく育っていって、忘れてしまった衝動にするりと成り代わる。

はじめは、メールが来ればいいなと思っていた。
メールが来たら、電話がしたくなった。
電話をしたら、今度は彼女に会いたくなってしまった。

「あのさ、名前って明日、ヒマかな?」

そんな言葉が、自分でも驚くほど自然に出てきた。一拍置いて我に返った東峰は、「あ、いや、日付が変わったから今日なんだけど」と、少し慌てて付け加える。

しばしの沈黙の後、名前の口から飛び出してきたのは、東峰が予想もしていなかった言葉だった。

「あー、えっとね、お正月は仕事の研修があるんだよね……」

少し沈んだ声色で、彼女は「仕事」と言った。それを聞いた東峰の脳裏に、冬のはじめに彼女と交わした会話の一端がよみがえる。「旭くん、わたし就職決まったよー!」と嬉しそうに報告してきた彼女の笑顔。職種を尋ねると、彼女は観光系だと答えてくれたっけ。

年初めの煩悩に浮かされていた東峰は、頭をがつんと殴られたような衝撃を覚えて絶句した。夢から覚めたときのように、ふわふわと足元がおぼつかないような感覚があるが、頭の芯だけはさえざえと冷たい。
浮かれた感情のまま、彼女に電話までかけてしまったことが、ひどく恥ずかしかった。明日は朝から仕事だというのに、こんな時間まで電話に付き合わせてしまって。

こんなことなら、電話も、メールも、するんじゃなかった。
そう後悔しながら東峰は、頭を抱えるように背中をきゅっと丸める。

「仕事上がるの8時くらいになるんだけど……、もし旭くんがそれからでもよかったら、ちょっと会えたら嬉しい、かも」

そんな彼にかけられた名前の言葉に、東峰は耳を疑った。彼の口から反射的にもれた「え?」という言葉をどう解釈したのか、名前は「あ、その、無理なら、全然大丈夫、ごめん」と急いたように謝罪の言葉を重ねる。
それを聞いた東峰は、慌てて携帯電話を握り直してこう言った。

「む、無理じゃないし、ていうかむしろ俺もそうしたいです!」

受話口の向こうの彼女が、ほっ、と息をつく。

「ほんと? よかったー」

それは、普段の彼女そのままの軽やかな口調だった。

「じゃあ、仕事終わったら、電話します」
「あ、うん、……その、今年もよろしく」
「うん。こちらこそ、今年もよろしく」

耳元がくすぐったくなるような名前の声。それを名残惜しく感じながら、東峰は別れの言葉を数度繰り返して、電話を切った。

ずっと耳に押し当てていた携帯電話が、ぼやっとした熱を帯びている。ディスプレイに表示された通話時間を他人事のように眺めながら東峰は、際限なく大きくなってゆく自身の煩悩を思って途方に暮れた。




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