はじめは、また火山灰が降っているのかと思った。
窓の向こうの空はどんよりと曇っていて、そこからこんこんと降ってくる小さな顆粒がいつもの景色をぼんやりとけぶらせていたからだ。
ベッドから起き上がったナマエは、どの程度火山灰が降っているのか確認するために、寝ぼけまなこをこすりながら窓に近づく。すると、今までに感じたことのないような冷気が彼女の肩を震わせた。
温暖なホウエン地方の冬にしては異様に厳しい寒さは、半分眠ったままだった彼女の頭を急速に覚醒させたらしい。ナマエは、空から降ってきているものがいつもの火山灰とはどこか違っていることに気付いた。興味を惹かれ、窓の外を注意深く観察する。
それはいつもの灰よりもひとつひとつの粒が大きくて、色も綺麗な白色だった。
地面に目を転じると、積もったそれは灰のようにのっぺりと重たく積もるのではなく、軽やかに、ふわふわと、優しく大地を覆い隠している。
違う、これは火山灰じゃない。
ナマエがそう確信した瞬間、背後で彼女のガーディが大きな声で鳴いた。突然の大声に、弾かれるようにそちらを振り返る。
視線の先には、行儀よくお座りをして、ふさふさのしっぽをちぎれんばかりに振っているパートナーの姿があった。
「おはよう」
反射的にいつもの挨拶を口にしたナマエ。ガーディはそんな彼女に、またも普段よりも大きな声で返事をする。
彼とずっと一緒に生活しているナマエは、その声に抑えきれない高揚が滲んでいるのを敏感に感じとった。
「今日はすごく元気だね?」
こっちにおいで、というように両手を差し出しながらそう問いかけると、ガーディは彼女の腕の中にぴょんと飛び込んできた。
窓際で感じていた寒さが、彼の体温によって中和される。ナマエはほのおポケモンのあたたかさに思わず頬を緩めてガーディを抱きしめた。
抱きしめられたガーディは、ナマエの肩に顎を乗せた格好のまま、またも高い調子で一度吠える。何かを訴えるような声。ナマエは彼をぎゅっと抱いたまま少し首をひねって、彼を見遣る。
りりしい瞳が印象的な横顔は、きらきらした眼差しで窓の外をじっと見つめていた。
ガーディにつられるように、ナマエも視線を窓の外に向け直す。
ふたりの視線の先、窓の外でしんしんと降り続くのは、真っ白な雪。
生まれてはじめて見る雪に興奮しているのか、ガーディは全身を震わせるようにしながら、窓の外とナマエを交互に見ては吠えたてる。
もしも自分がガーディを抱いていなかったら、彼はこのまま窓を破って外に駆けていってしまうかもしれないな。ぼんやりとそんなことを思ったナマエは、雪の中ではしゃぐガーディを想像して、くすくすと笑みをこぼした。
すぐそこでこぼれた大好きな彼女の笑みに、騒いでいたガーディの動きがぴたりと止まる。ぴっと持ち上がった双眸をぱちりと開いて、彼女を見つめる。
「あれはね、雪っていうんだよ」
窓の外で風に舞う雪を見ながら、ナマエはガーディにそう声をかけた。雪? と聞き返すように、ガーディは喉の奥をくうんと鳴らして彼女を見つめる。
ナマエは「雪かあ。私もはじめて見るなあ」と言って、おとなしくなった彼のあたたかい毛並みにそっと頬を寄せた。
雪、という言葉をどこで覚えたのかは、定かではない。生まれてからずっとホウエンにいるナマエは当然のように雪なんて見たことがなかったからだ。
ただ、寒い冬の訪れる地域では、空から雨の代わりに雪が降るのだということは知識として知っていた。雪というのは、火山灰と違って冷たくて、触ると溶けてなくなってしまうらしい。そんな不思議なものがこの世界にはあるんだなあ、と、シンオウ地方を映したテレビを見ながらぼんやり思っていたっけ。
幼い頃の記憶を引っ張り出してしんみりしていたナマエ。
ガーディはそんな彼女を元気付けようとするように吠えた。自分を抱くあたたかい腕の中で尻尾を振りながら、大好きな彼女に呼びかける。ねえ、一緒に外に行こうよ。一緒に雪で遊んだら、きっと元気になるよ。
窓の外を見つめていたナマエは、その声に反応してガーディに視線を向け直した。自分を誘うようにしきりに吠える彼。その好奇心旺盛な瞳に、窓の向こうで風に舞う雪が映りこんで、ちらちらと輝いている。
彼の誘いを断る理由なんてなかった。ナマエは彼ににこりと笑いかけると、高らかに言う。
「オーケイ、ちょっと待っててね」
外出の身支度のために、ガーディを離した。彼は防寒対策のために服を重ね着するナマエと、窓の間を行ったり来たりしながら、待ちきれないと言うように短く一度吠える。
「はいはい、」と苦笑気味に言いながら手早く支度を終えたナマエは、最後に持っている中で一番厚手の上着を羽織ってから、自分の周りをとことこと駆けまわるガーディの頭をくしゃりと撫でた。
「行こう!」
一声鳴くやいなや玄関に向かって駆け出したガーディを追う。スニーカーを履いてドアを開けると、ぴゅうという音と共に冷たい風と、それからいくつかの雪片が吹き込んできた。
ホウエン育ちで寒さに弱いナマエは、そのこごえる風に思わず動きが鈍ってしまう。
しかしほのおポケモンのガーディは、そんな寒さなんてもろともせずに一気に雪の中へ飛び出した。
純白の大地を、軽やかに駆けてゆくオレンジ色の肢体。彼の小さな、しかし力強い足跡が、白銀に刻まれる。
10メートルばかり走った彼は、そこで思い出したようにナマエの方を振り返った。そして、また元気いっぱいの声で彼女を呼ぶ。
寒さに怖気づいてしまっていたナマエは、その声に弾かれるように駆け出した。
積もっていた雪が、足元で巻き上げられて、散ってゆく。やっと追いついた、とナマエが思った瞬間、ガーディは雪の地面を蹴って、勢いよく彼女にじゃれついた。
満面の笑みを浮かべるガーディを抱きとめる、と同時にバランスを失ったナマエ。そのまま後ろに倒れて、ひとりと一匹は雪のクッションにぼふんと体をうずめた。
ナマエの目の前には、オレンジ色の笑顔があった。目が合った瞬間、どちらからともなく笑いが弾ける。きゃんきゃんと嬉しそうな声で鳴くガーディ。
彼の頬に落ちた白い雪が、彼の体温に溶けて、あっという間に消えてゆく。
(私の頬についた雪も、ああやって消えているんだろうか。)
ナマエは彼を抱きしめると、雪の間をごろごろと転がった。ガーディはこの遊びを気に入ったのか、大きな歓声を上げる。つられるように、ナマエも大きな声をあげて笑った。
静かな雪の朝に、ふたつの笑い声が吸い込まれて消えてゆく。
ああ、これが雪なんだな。と、ナマエは唐突に思った。
今まで知識として知っていた「雪」という言葉が、この瞬間、血肉を得て自分の体の一部になったような感覚がはっきりとあった。
転がることに疲れた彼らは、雪のクッションにあおむけに身を委ねたまま、雪を吐き出し続ける灰色の空を見上げる。
重力に従って降る雪と空だけを見ていると、まるで自分の体が天に昇ってゆくような、なんとも言えない錯覚にとらわれる。その不思議な感覚を楽しんでいると、
不意に、無彩色一色だった空に、一瞬、鮮やかな水色が映りこんだ。
雲の切れ間から空が見えたのかとも思ったが、すぐにそれは違うとわかった。一瞬だけ見えたその水色は、空の色よりももっと濃くて、鮮やかな色をしていたからだ。そう思ったナマエは、その正体を探るように目を凝らした。そんな彼女を見たガーディも、つられるように空を見上げる。
しんしんと降り続く雪の向こうに、それは再び現れた。灰色の雲の中から現れたのは、水色の鳥ポケモンだった。大きな翼を優雅に広げ、美しい長い尾をなびかせて、モノクロの世界の中を主役のように飛んでゆく。
その姿が雲の間から見えていたのは、時間にしてわずかに数秒のことだった。しかし、その姿のあまりの神々しさに言葉を失って空を見上げていたナマエたちにとって、その時間はとても長く感じられたのだろう。水色の尾をたおやかに揺らしてそのポケモンが再び雪雲の向こうに姿を隠してしまってからも、ふたりは黙り込んだまま、雪の空を見つめていた。
「……今の、見た?」
呆然としたナマエの声に、ガーディは小さく喉の奥で鳴いてみせた。どうやら、肯定の返事であるらしい。
ナマエはもうあの鮮烈な水色のいない灰色の空を眺めながら、思う。
今まで雪なんて降ったことのない南国に雪雲を連れてきたのは、あのポケモンだったんだ。ナマエはそう確信した。無条件に信じてしまうほどの神々しさを、あの鳥ポケモンは持っていたのだ。
意図せず世界の神秘を垣間見てしまったナマエは、時間も忘れて灰色の空を見つめ続けていた。
そんな彼女の冷え切った指先に、ガーディがおもむろに頬を寄せる。ナマエはそのふわふわの毛並みを今までにないくらい熱く感じて――そうしてはじめて自身の体がすっかり冷えてしまっていたことに気付いた。
さっきまで一緒に水色の鳥ポケモンの美しさの、その余韻に一緒に浸っていたはずのガーディ。しかし今の彼はもう世界の神秘なんて眼中にないようで、ただ懸命にその頬や額をナマエの手にこすりつける。
ぞっとするほど冷たい自分の指先を必死に温めようとしてくれているのだということを、ナマエはやや遅れて理解した。どこまでも優しいガーディの頬に手の甲でそっと触れ、頭のふわふわの飾り毛に指を差し込む。よしよしと頭を撫でると、彼は両目を幸せそうに細めて喉の奥で小さく鳴いた。
彼の体温と心遣いが自分の体の芯にじわりと染み込んでいくのを感じながら、ナマエはそっとその唇を開く。
「……ほんとにガーディはあったかいね」
自分が褒められたことに気付いたガーディは、その豊かな尻尾を大きく振って自分の気持ちを精一杯表現した。そう、僕はあったかいんだ! あなたがそれを喜んでくれたなら、僕はとっても嬉しいよ。ナマエはガーディの饒舌な尻尾を見て小さく笑うと、最後に彼を強く一撫でして立ち上がった。
「ありがと。おかげで元気が出たよ!」
ガーディはナマエがすっかり普段通りの調子でそう言ったのを見て、その口角を持ち上げて嬉しそうに鳴く。それから彼はナマエの周りを三周ほどぐるぐる回って、彼女が本当に元気になったのを確認する。それから、家の方向へぱっと走りだした。来たときと同じように数メートル進んだどころで振り返って、元気いっぱいに吠えて彼女のことを呼ぶ。
さっきまでの神秘的で静かな冬の思い出も悪くないけれど。
私とガーディには、きっとこっちの方が合っているよね。
「待って!」
ナマエが駆けだしたのを見るや否や、ガーディもその四肢を伸びやかに動かして走り出した。互いを呼び合いながら、互いに追い付いたり追い抜いたりしながら、雪の中を一緒に走る。目が合う度にこぼれる笑みを隠すことなく、ふたりは雪を巻き上げながらどこまでも駆けていった。
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