(13:33)
再び電車に乗り、駅前で澤村たちと別れ、自宅へと戻ってきた東峰。慣れ親しんだ玄関扉を開けて「ただいま」と言った彼は、ふと、家の中に満ちる甘いかおりに気が付いた。
靴を脱ぎ、そのまま真っ直ぐ台所へ向かう。そこには、真っ赤に燃えるオーブンと、その中で甘いかおりを放ちながら膨らんでいくスポンジケーキの姿があった。
オーブンの様子を気にしながらホイップクリームを泡立てていたらしい彼の母親が、ちらりと東峰の方を振り返って「ああ、おかえり」と柔らかな声で言う。
彼女の肩口の向こうに、切りそろえられたいちごの鮮やかな赤い色が見え隠れしているのに気付いた東峰は、つい先程澤村たちと小腹を満たしたにも関わらず、またもや食欲を刺激されてしまった。ぐう、と小さく鳴った彼の腹。それに小さく笑った母親は、右手に持っていたハンドミキサーを台の上に置いて、「お昼、温めるから、ちょっと待っててね」と言い、コンロに鍋を乗せて点火した。
毎年1月1日になると、東峰の母親は、息子のためにケーキを焼く。どこのケーキ屋も、お正月はお休みをとってしまうからだ。
その昔、まだ東峰が小さかった頃、彼は自分の誕生日にまるいケーキが食べたいと母親にねだったことがあった。幼い頃の記憶というものはとても曖昧で、東峰はもうそのことを覚えてはいない。しかし、母親の作るいちごの乗ったホールケーキは、もう彼の誕生日には欠かせないものになっていた。
昔は、あのケーキがあればそれで満足だった。
でも今は、あのケーキがあっても、大地たちと初詣に行っても、後輩から誕生日を祝うメールをもらっても、もうそれだけでは満足できない。自分はなんて贅沢者になってしまったんだろう、と思い悩みながら、しかし、欲しいものがすぐそこにあるのに手を伸ばさない理由もまた、彼は見付けられないでいた。
「……あのさ、今日の夜なんだけど。晩ごはんの後、ちょっと、と、もだちと、出かけて来るよ」
ともだち、と言うところで少し口ごもってしまった東峰。しかし母親は、それに気付かなかったのか、無視をしたのか、とにかく、ごくあっけない調子で「あら、そう。わかった」とだけ言って、再びハンドミキサーを手にする。
息子ももう、そんな歳になったのだなあ。と思いながら、彼女はハンドミキサーのスイッチを入れた。嬉しいような、でも少しだけ寂しいような、そんな複雑な気持ちが、真っ白なホイップクリームの中で急速に溶けていった。
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