(19:51)

家族と一緒に夕食を食べ終わり、居間でテレビを見ていた東峰の携帯が鳴る。待ってましたと言わんばかりの速さでメールを確認すると、それは予想通り、名前からのものだった。

『遅くなってごめん、今バスです、もうすぐ着きます。
東峰の最寄りの、公園の近くのバス停までいくんで、そこで待ち合わせでいい?』

画面に浮かび上がるその文章に素早く了承の返事をしたため、東峰はすぐにこたつから出た。上着を取りに自室に向かおうとした彼に、母親ののんびりとした調子の声がかかる。

「あ、行ってくる?」

それに東峰は「あ、うん、えと、10時過ぎくらいに帰るから、」と矢継ぎ早に返事をした。母親が「わかった」と頷いたのを確認するやいなや、自室に上がり、着なれたブルゾンに袖を通す。それから、財布と携帯電話をポケットに押し込んだ。
さっさと身支度を整えた彼は玄関に向かうと、「いってきます」と口早に言って、そのまま勢いよく家を出た。

あたたかく保たれていた部屋の中とは一変して、外は身を切るような寒さだった。剥き出しの耳や、鼻のてっぺんが、一気に冷たくなる。
いつもなら、誰よりも真っ先に情けない声をあげて背中を丸める東峰。しかし、そんな普段の彼はどこへやら、今日の東峰は寒さに構うようなそぶりなんて全く見せずに、ごく軽い足取りで約束のバス停へと向かってゆく。

住宅地を抜け、車のいない道路を小走りで渡り、メインストリートに面した児童公園前のバス停に辿り着いた東峰。

ぽつん、と一台だけ置かれた青いベンチには、バス待ちの人影はなかった。
携帯電話で時間を確認すれば、デジタルの表示は20時ちょうどを示している。よかった、どうやら、彼女が来るまでに間に合ったらしい。こんな暗くて寒い中で彼女を待たせず済んだことに僅かに安堵しながら、彼は小さく息をついた。

せわしなく動かしていた足を止めたことで少しばかりの余裕ができたのを契機に、昨晩から東峰の胸にわだかまっている煩悩が、再びその鎌首を大きく持ち上げる。
もうすぐ彼女に会える、と思った矢先にぶわりと膨らんだその感覚は、みるみる間に彼の神経を高揚させていった。名前は、どんな顔をして現れるだろうか。彼女は開口一番に何を言うだろうか、それに俺がなんと返したら彼女は喜んでくれるだろうか。
頭の中で名前のことをぐるぐると考える。なんだか、胸の奥がむずかゆい。

もうすぐ本物の彼女に会えるのだから、まだ見ぬ彼女についてあれこれ思考を巡らせなくてもいいような気もする。だが、煩悩に支配された頭の中から彼女を消してしまうことは、どうしてもできそうになかった。

胸の真ん中につかえた熱を吐き出すように深く息をつくと、驚くほど白い吐息が、誰もいないバス停の闇に音もなく吸い込まれていった。




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