(21:50)

「今日は、ほんと、ありがとう」

名前を家の前まで送り届けたはいいが、なんとなく、別れがたい。そんな雰囲気がどちらからともなく漂っている中で、しかし名前は、別れへ続いてゆくであろう言葉をあえてはっきりと口にした。
東峰は、為すすべなくそれに応える。

「いや、俺の方こそ。嬉しかった、です」
「私も。楽しかった」

自宅の玄関を背にして佇む名前。彼女が「じゃあ、」と言って踵を返してしまえば、すぐにでもふたりの今日は終わるだろう。
東峰は、明日からまた春高に向けた練習が再開する。名前も、三が日の間は休みなく正月研修が続く。東峰も、名前も、今日という日にこうして時間をとれたことがいかに奇跡的であるかは、よく理解していた。そして、その奇跡のような時間は一瞬で、またそれぞれの日常に帰っていかなければならないことも、よく理解していた。
それでも、あと少しだけ、いいですか。

「あ、あのね、旭くん、」

彼女の自宅の玄関先に掲げられたライトが、アンバーの光を投げかけている。彼女はその明かりを頼りに、ずっと肩にさげていた鞄の中から、ごく一般的な週刊誌ほどの大きさの包みを取り出した。

「これ、」

それをおずおずと、東峰の方に差し出す。
東峰はその包みを、緩やかな動作で受け取った。今日が東峰の誕生日であることを考慮すれば、それがいったい何であるかは容易に想像がついた。

「誕生日プレゼント、です」

照れたように笑った名前は、「いっぱい持ってるだろうけど、タオルにした」と付け加えて、その視線を足元に落とす。

「私は東京に行けないので、代わりに……って言うと恥ずかしいんだけど。……よかったら、東京に連れて行ってもらえないかな」

まろやかな琥珀色の光を受けて輝く彼女の輪郭が、恥ずかしそうに小首を傾げる。
それになんと返事をするべきか頭を悩ませる暇もなく、東峰は「おう」と強く頷いた。

「ありがとな。絶対、勝つよ」

いつも情けなく垂れ下がっている眉を、きりっと持ち上げて、そう約束する。

「うん」

そんな彼に名前は、ただ一度、深く頷いて応えた。
彼女の顔から、いつもの朗らかな笑みがすうっと消えてゆく。そして彼女は唇を固く閉ざしたまま、どこか神妙な顔つきで東峰のことを見つめた。僅かにひそめられた眉根。それから、張り詰めたような眦。
その揺らぐ瞳は、何よりも饒舌に彼女の心情を語っていた。少なくとも、東峰はそう感じた。
本当は、研修なんか休んで東京に行ってしまいたい。今だって、明日のことを考えなくていいのなら、そうしたい。けれど、ふたりはそういうわけにはいかないのだ。「もう少し、一緒にいませんか」、もしも彼女がそう口にすれば、きっと東峰はそれに流されてしまうだろう。だから彼女は、それを言ってしまわないよう、静かに葛藤しているのだ。

そしてそれは、東峰も同じだった。これ以上別れがたくなってしまわないように、口を閉ざす。
ふたりの間に沈黙が満ちる。今まででいちばんあたたかくて、いちばん残酷な夜が、ふたりを急かす。

「……あんまり長居すると、風邪、ひいちゃうね」

白い息を吐きながら先にそう言ったのは、名前だった。

「あ、うん、そうだ、な」

それに、東峰も続く。

「あったかくして寝ろよ」
「うん。旭くんも」

ややぎこちなくはあったが、きちんと笑えた。

「じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」

ひらりと右手を振った彼女は、そのまま踵を返して、ドアの向こうへと消えてゆく。
かちゃり、と軽い音をたててドアが閉まるまで、東峰は彼女のことを見送った。それからゆっくりと踵を返して、確かな足取りで自宅へ向かって歩き始めた。彼女から託された包みを持つ右手に、自然と力がこもる。彼女と交わした勝利の約束を胸の奥で思い出せば、どんなに苦しくても高く、高く跳べるような気がした。




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