とろい私にとって、学校は、たまに、とても危険な場所になる。

手摺に手をかけながら階段をのんびり上っていた私は、2階と3階の間にある踊り場に差し掛かった瞬間、目の前に急に踊り出てきた黒い影と正面からぶつかり、バランスを失った。
体に走った突然の衝撃に押された私は、そのまま後ろに後ずさるように階段を踏み外す。
あっ、と思った瞬間、騒がしかった校内のざわめきが、すっと消えた。心臓はどくんどくんと激しく脈打っているけれど、私の頭はそれをまるで他人のことのように冷静に捉える。体が傾いゆくことはわかる、しかし、運動音痴な私はどうすれば自分の体を元に戻せるかはわからなかった。ゆっくりと世界の傾斜がきつくなってゆく。内臓だけがふわりと浮くような不思議な感覚が私を支配する。このままだと落ちる、ようやくそう思い至り、なんとかバランスをとろうと本能的に差し出された右手は、しかし虚しく空をかいた。

その瞬間だった。
どこからかぐんと伸びてきた腕が、私の右手首を掴んだ。

腕だ。と当たり前のことを思った刹那、体に再びがくんと衝撃が走る。やや遅れて、私の手首を掴んだ腕が、重力に引かれる私の体を引っ張ってくれたのだと理解した。
ついさっき私を押した力とは逆方向の力が私の体に働いて、私の世界は正常な傾きを取り戻すことが出来たらしい。まだ、あの不思議な浮遊感が体の奥に残っていて、私は確かにここに立っている筈なのに、少しだけ足元が覚束なかった。
私の右手を掴んでくれた人物は、咄嗟に私の肩に自身のもう片方の手を添えて、私が自分の足で立つのをサポートしてくれる。そして、私の顔を覗き込んで「大丈夫か!?」と叫ぶように言った。その声量に圧倒されながら、私は反射的に頷く。私の無事を確認した目の前の人物は、それから首をぐっと後ろに捻って、「あぶねーだろーが!」と再び声を荒げた。その後方から、「わりぃ」という声が飛んでくる。あ、あの今謝った人と私がぶつかったんだ。次第に回り始めた頭で、私はまずそれを理解した。

麻痺していた五感が平常に戻りつつあるのを感じながら目の前に立ちはだかる人物に何となく目を向けた私は、そこにいた人物に思わず視線を奪われた。
踊り場の窓から差し込む真昼の日差しが、この人の輪郭を明るく滲ませていた。逆光が眩しくて、私は少し目を細める。明暗のコントラストが激しい視界の中で、太陽光を受けて鈍く光る詰襟の学年章が、彼が私と同じ二年生であることを示していた。

わりぃ、と謝罪を述べて駆け去って行った男を見送った彼が、ゆっくりとこちらに向き直る。
見上げた先の彼のきりっと持ち上がった双眸が、逆光の中に浮かび上がる。私は、その意志の強さを隠さない瞳に瞬時に射抜かれてしまった。再び自分の体が自分のものでないような、浮遊感じみた違和感に襲われる。彼の瞳から目が離せないままに、鼓動だけがじわじわ高まってゆく。

私が自分の力で立てそうだと判断した彼は、私を支えていた両手をすっと離す。彼に握られた右手首のはっきりした熱の残滓を名残惜しく感じていると、不意に、目の前にある顔が、にかっと鮮やかに笑った。彼の背後から差し込む光が、一層強くなった気がした。

「お前どんくさいな!」

悪びれることなく高らかに口から滑り出た真っ直ぐな声と、なによりも、唐突なその笑顔が、私の心臓をぐっと押す。こんなにも眩しいのに、この笑みから視線を逸らせない私は、きっともうこの浮遊感から逃れることは出来ないのだと確信した。

とろい私にとって、学校は、たまに、とても危険な場所になる。
……私はどうやら、やっぱり落ちてしまったようだ。




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