名前から借りた英語の課題を必死で写す。休憩時間はあと3分、ラストの問5の英作文がやたら長文で書き写すのに少し手間取りそうだが、まあ問題を全部埋められなくてもこのペースで手を動かしていけばなんとか及第点には届くだろう。
そう思った影山に、隣の席の名前は「そこスペルミス」とけだるそうな声で言って、手にしていた筆記具の頭で先程影山が書いた単語をコツコツと叩いた。

「ああ?」

手を止めなければならないことに苛立った影山は、不機嫌な声を上げて、宿題を見せてくれているクラスメイトをあろうことか睨み付けた。彼のそのあんまりな態度に、名前は、はあ、とこれみよがしな溜息をつく。しかしすぐに影山の不機嫌など全く気にしていないような普段通りの調子に戻ると、もう一度先程の単語を示して、「r じゃなくて n ですよ」とごく静かに訂正した。
もともと良くない目つきを更に険しくして名前のプリントと自身のペン先を見比べた影山は、小さくない舌打ちをしてから筆記具を消しゴムに持ち替える。ごしごしと乱暴にプリントを擦りながら、「お前の字、汚くてわかりにくいんだよ」と八つ当たりにも近い罵倒を投げつけた。更に、名前が何も言い返さないのをいいことに「もっと綺麗に書けボゲ」といつもの余計な一言も付け加えた。

「はいはいどうもすみません、ついでにここも間違ってますよ」

しかしそれをさらりと受け流した名前は、先刻と全く同じ動きで別の箇所の単語をコツコツと叩く。
影山は再び苛立ちを含んだ声をあげて、消しゴムを動かした。教室に掲げられた飾り気のない時計の長針がかちりと動く。

「ほらトビオちゃん急いで。チャイム鳴っちゃうよ」
「うっせーわかってんだよあとその呼び方ヤメロ!」

スペルミスの修正で貴重な時間を無駄にしたことに苛立つ影山の神経を、名前の暢気な声援が逆撫でする。
時間が無いとわかっていても、また、彼女は自分をおちょくって楽しんでいるだけだと理解していても、影山はプリントから顔をあげて名前を睨み付けずにはいられなかった。そんな彼の目の前で、名前の顔がにこりと歪む。影山の怒声など全く気にせずにけらけらと声をたてて笑った名前は、「はいはい、影山クン」とやや棘のある余裕の笑みを浮かべながら、右手に持っている筆記具を自分の机の上にかたりと置いた。
そして彼女は机と筆記具が触れ合った乾いた音をきっかけに、今まで影山の方に向けていた体を正面に向け直して、所在なげに頬杖をついた。その顔から影山を嘲っていた笑みが急速に消えていったのを受けて、名前を睨み付けていた影山の顔が、拍子抜けしたように毒気を失う。

それは、名前なりの『もう邪魔しませんよ』という意思表示であったし、その意図はおよそ正しく影山に伝わった。影山は名前に向けていた視線をプリントに注ぎ、アルファベットを書き写す作業を再開する。
だが、影山をからかって楽しんでいた彼女が何故このタイミングで影山から意識を逸らしたのかは、影山には全く伝わっていなかった。名前は影山の反応に満足したのかもしれない。このままだとプリントを写し終えることが出来ないからと気を回したのかもしれない。純粋に影山とのやり取りに飽いただけかもしれない。それとも、何か別のきっかけがあったのかもしれないし、或いは本当にただの気まぐれでそこに理由なんてないのかもしれない。ただ、これまで嫌味なくらい明け透けだった自分と隣人の間に、漠然とした、曖昧な不透明さを感じて、影山はまた彼女に対して苛立ちを募らせた。
それはこれまでのような挑発的な態度による苛立ちとは明らかに別種の感情であった。しかし名前独特の癖字で綴られた r と n の区別に格闘する影山がそれを意識するのは、まだ先のことである。

影山が英作文を全て写し終わるよりも早くチャイムが鳴った。
「残念でしたねぇ」と言いながら影山の机から自分のプリントを掠め取った名前は、いつも通りの挑発的な笑みを浮かべていた。影山もいつも通りの罵詈雑言を並べ立ててから、未完成のプリントを提出した。




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