本を読んでいたナマエが、小さな欠伸をこぼす。それに気付いたダークライは、青空色の瞳を少し動かして時計を確認した。ずんぐりしている方の針が、11時を回ったことを示している。もうじき、彼女の眠る時間だ。

ダークライは時計から視線を外し、本を読むナマエの横顔を静かに見つめた。文字列を追う彼女の瞳が、小さく左右に動いている。彼女の瞳は、彼女の好きなコーヒーという飲み物によく似た濃いブラウンで、ダークライはそれを見るたびにあの飲み物の独特のかおりを思い出す。誰とも関わりを持つことがないように人からもポケモンからも遠く離れた小さな島で暮らしていたダークライにとって、そのかおりは一度嗅いだら忘れられない、そんな不思議な匂いだった。

ダークライに見つめられていることに気付いたのか、今まで本に走らせていた彼女の視線が不意に持ち上がり、ダークライの瞳を真っ直ぐにとらえる。ダークライの脳裏に漂うかおりが、少し強くなる。

ナマエはブラウンの瞳を柔らかく細めて笑うと、「もうそんな時間か」と言って、本を閉じた。

「明日はね、一日時間があるの。よかったら、湖の方にピクニックに行かない?」

お気に入りの椅子から立ち上がった彼女は、ゆっくりと窓の方に歩いて行きながら明日の計画を話した。
まずは一緒に朝食をとって、少しゆっくりしてからふたりぶんのお弁当を作って出かけよう。保温瓶にはお気に入りのコーヒーを入れて、履き慣れたランニングシューズで湖へ行こう。

「湖の奥に小さい頃に見つけたお花畑があるんだ。ダークライと一緒に見たいなあと思って」

どうかな? と僅かに首を傾げたナマエに、ダークライはこくり、としっかり頷いてみせた。すると、彼女の笑みが深くなる。と同時に、濃いブラウンの瞳が僅かに揺らめいた。
……いつもこうだ。ナマエは自分と別れる時、いつもこうしてほんの少しだけ瞳を揺らす。ダークライはその意味に思いを巡らせようとするのだが、彼の思考が追いつくよりも早くその揺らぎは消えてしまう。代わりにどこまでも柔らかな笑みが表れて、ダークライを包み込んでしまうのだ。

「約束よ」

あの瞳の奥にあるものを、またつかみ損ねた。ダークライはそう思いながら、またも彼女の言葉に頷いた。この約束というのを交わすとナマエが安心したように笑うことを、ダークライは知っていた。ナマエは彼の予想の通り、瞳をとろけさせて笑う。

「じゃあ、また明日ね」

彼女はそう言うと、南の窓をそっと開けた。
ダークライは空を滑るように移動して、柔らかな明かりが満ちる彼女の部屋から星明りに照らされた夜の中へふわりと躍り出る。それから、ゆるやかな動きでターンをすると、彼女の瞳を覗き込んだ。濃いブラウンの虹彩が、部屋の明かりを受けて輝いている。コーヒーのかおりが、ダークライを絡め取るようにどこからともなく香ってくる。

コーヒーというのは、苦い味がするらしい。はじめてその話を聞いたとき、ダークライはチーゴのみを思い浮かべたのだが、どうやらきのみの苦みとコーヒーの苦みは根本的に異なっているのだという。
「コーヒーの苦みはね、ほろ苦くって、でも少しだけ甘いような味なんだよ」
そう説明してくれた彼女の声を思い出す。ほろ苦くて、でも少しだけ甘いような味。それがどんなものなのか、正直なところ、今もよく理解できてはいない。ただ、こうして毎夜別れる間際に彼女の瞳を見て感じるこの気持ちがもしかしたらそれに近いものなのかもしれないな、と、ダークライは思っている。

明日がくれば、きっと彼女は一番に窓を開けて自分をむかえるための準備をしてくれる。そして、自分がここに戻ってくる頃には、窓から目の覚めるようなコーヒーのかおりが漂ってきているはずだ。

また明日。
ダークライはそう言って、星空へ舞い上がる。彼女の瞳はあっという間に見えなくなってしまったが、あのほろ苦いかおりは消えなかった。
ひとり新月島に戻った彼は、波の音以外になにも聞こえない棲み処でそっと目を閉じた。彼女が見せたいと言った花畑がどんなものかを瞼の裏に思い描きながら、彼はゆっくりと眠りへ落ちてゆく。ダークライが静かな寝息を立て始める頃、ようやくほろ苦いかおりは夜の彼方へ消えていった。


ダークライの前で寝てしまわないように苦手なコーヒーを飲んでいる設定




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