朝練に向かう菅原孝支は、イヤホンから流れる旋律に耳を傾けながら欠伸を噛み殺す。遅刻をするようなことはないが、同時に決して朝が得意なわけでもない菅原は、ジャージのポケットに突っ込んでいた右手と音楽プレイヤーを取り出して、何か少しでも眠気を覚ましてくれそうな音楽を探してアルバムを繰ってゆく。

通い慣れた坂を寝起きのやや覚束ない足取りで上っていた菅原は、我らが坂ノ下商店に差し掛かった所で、そこに見慣れない人影を見付けた。
『坂ノ下』の文字の入った鳥の子色のエプロンをつけ、土間箒を手際よく動かす、小柄な女の子の姿がそこにあった。エプロンのサイズが合っていないのか、箒を動かすたびに右肩の肩紐がずり落ちそうになっているのが曖昧な菅原の意識にすっと入り込んできた。あれ大丈夫かなあ、あ、でも肩紐落ちたら落ちたでいいかもしれないなあ。

眠気のせいではっきりしない頭の隅に、後輩の騒がしい様子がぼんやりと蘇る。坂ノ下商店に天使が現れたんすよ! と騒ぐ坊主頭。菅原が、ああ、あの子のことか。と思った瞬間、箒の穂先を見詰めていた彼女の視線が徐に持ち上がって菅原を捉えた。

低音の効いたインストバンドの楽曲の向こうに、「おはようございます」という明るい声が微かに聞こえた。
それを紡ぎ出した唇の両端がにっこりと持ち上がる。

彼女の笑顔に完全に気を取られた菅原は、何も考えずに交互に出していた自分の足に躓いてしまった。「うわっ」という情けない音が体内を反響して頭の中に響いた。この声は、彼女にはどう聞こえたのだろう。バランスを失いながら菅原は、場違いにもそんなことを考える。
視界の中央に収めていた女の子の笑顔が驚きの表情に変わってゆく様子をスローモーションのようにはっきりと見ながら、菅原は寝惚けていた自分の頭と体が瞬時に覚醒してゆくのを感じた。これ以上格好悪い所を見られたくなかった。

三歩よろけて、しかしなんとか体制を立て直した菅原は、まず耳に装着していたイヤホンを外す事から始めることにした。

「だっ、大丈夫ですか?」

先程とは比べものにならないくらいはっきりと聞こえた彼女の声を聞きながら、菅原は明日からはもうちょっと早く音楽プレイヤーの電源を落としている自分がいるであろうことを確信した。たぶん眠気覚ましの音楽も、もう必要ない。




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